human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「自然」の実感について

久石 今、みんな暇さえあれば携帯メールをしているみたいだけれど、メールに花鳥風月のことを書く、自然のことを話題にする人なんていないんじゃないのかな。
養老 振り返って考えたとき、人間世界の誰それに怒られたとかいじめられたとかいうのは、自然の中に入って、山なんかを歩きまわっていたらゼロになってしまった。つまり、解毒剤になっているわけです。木に登って、木から落っこちたら落っこちたで、それは自分にとって何かダメージになるようなマイナスではないんですよ、ざっくばらんにいえば、自然は人間社会のちまちましたことなんか関係ない世界です。だからそこにふれることでバランスが取れる。
久石 そうですね。それなのに、今、どこに登ると落ちたら危ないからダメだ、あれはしてはいけない、ここに行ってはいけないと言い過ぎる。
p.133-134(養老孟司×久石譲『耳で考える』)

上記は、昨日の記事の抜粋のすぐ後のところです。
昨日は最初この話を書こうとして、抜粋でたどり着くまえに別の話になりました。
それはいいのですが、この抜粋部の話は自分にとって身近なテーマです。
自分の行動方針と繋がっている、という話を書きます。


下線の「自然は人間社会とは関係ない世界」を実感するのは、実は難しい。
どれだけ田舎に行こうが、たんに自然と触れ合うだけでは叶わないのです。
たとえば触れ合うにしても、人間社会の論理を持ち込まないでいられるかどうか。
久石氏のいう様々な禁止もあるし、社会的責任はいやでもついて回ります。

例えば、登山中に滑落して骨を折ったりすると、何週間もまともに仕事ができない。
それが不測の事故であれ、会社に迷惑をかけるし、不注意だと思われるかもしれない。
そういった心配が無闇な行動を避ける、これが社会的責任の意識の一例です。
「そんなの当然」と思われるなら、それだけ人間社会の論理が強固だということです。

社会的責任を意識しないで行動する人間は無責任とみなされます。
そのレッテルによって仕事が変わったり、実際に事故が起これば解雇されることもある。
無責任な行動はリスクと呼ばれ、リスクヘッジが常識のように語られる。
それはそれで構いませんが、僕はその常識を常に相対化するスタンスでいます。

社会的責任の意識が身体化されていれば、それを解除するための意識がまた必要です。
「常識の相対化」も、常識の機能する集団で生活する限り意識を怠っては成立しない。
それは会社にいる間も週末に散歩をしている間も同じことです。
漸近的でしかあり得ませんが、目指す未来像があればこそ、継続する意味があります。

自分の生活の具体的な話をしたかったのですが…次回に続きます。