human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「自然」を書くこと

養老 (…)中学生の時にいじめられた記憶を二十五歳になって書いたという『十四歳の私が書いた遺書』という本を読んだんです。そこで気がついたのは、その本の中には、花鳥風月が一つも出てこないんです。桜が咲いた、台風が来た、雪が降ったといったことは一切ない。先生が何と言った、友だちが何と言った、誰の態度がどうだと、すべて人間の世界なんです。
久石 ああ、人間関係の中で、人の言ったことの比重が重くなっていってしまったんでしょうね。
養老 人間の社会の中だけにいて、意識が歪んだ形で大きくなってしまう。だから呪いの言葉も大きく深刻になってしまう。
「第四章 意識は暴走する 呪いの言葉が社会に満ちている」p.133(養老孟司×久石譲『耳で考える』)

この部分を読んだ時に、読むのを止めて考え込んだことを記憶しています。
「呪いの言葉」の話はもっともだ、と思いながら、そうじゃない、と思う。
他人事でないと思ったのは、僕自身も「意識」のことばかり考えているからです。
そして抜粋にあるように、「自然」の話をあまり書いてないなあ、と。

自分の身体については、その動きと思考との相互作用を日常的に意識しています。
当初の枠組みをはみ出てはいますが、「身体論」タグの記事も多く書いてきました。
しかし身体は間違いなく「自然」であるものの、「意識」の影響を強く受けます。
身体はいわば「自然」と「意識」の境界物で、花鳥風月と一緒くたにしてはいけない


ブログに「意識」の話を書きやすい理由はいくつもあります。
思いつくところで、まず文章を書くこと自体が意識主体でしかなされ得ないこと。
そして自分の「意識」にオリジナリティを感じやすいこと。
これはどうしようもなくて、つまり「自分は自分だ」と思うこととイコールだからです。

一方で「自然」、特により純粋と思われる花鳥風月を文章化する場合を考えます。
自分で書けば分かりますが、経験が少ないと陳腐で凡庸な文章になります。
読書に慣れると麻痺する感覚ですが、普段読む本と自分の文を比べると愕然とします。
これは表現力の無さより、「日常における自然との遠さ」と解釈した方がいい。

僕が最近妙な文章(「無題」シリーズ)を書き始めた理由の一つはここにあります。
(大きな理由がもう一つありますが、これはまた別の機会に書きます)
別に小説を書きたくなったわけではなくて、「自然」を言葉にしようと思ったのです。
日常的な思考を形作る言葉が「自然」と触れ合うことが、大事な気がしたのです。

「無題」シリーズは今のところ「書くこと」タグ↓をつけています。興味があればぜひ。cheechoff.hatenadiary.jp