human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「自分の必然」の情報化について

最近、「必然」について考えています。

一般的には、そうなるべくしてそうなった、ということを意味します。
これを「最初から、やる前から結果が決まっていた」ととらえる人がいます。
結果が分かり切ったことをやっても面白くない、と言えば頷きはします。
が、言葉通りの解釈が正しいという考え方は、それこそ結果が分かり切っている。

本を読んでいて「あとから考えるとこれは"必然”だった」という文脈によく出会う。
それは後付けには違いないのですが、でも「そう思われて仕方ない」ことがある。
自分がそう思うこと、あるいは人にそう思わせることが重要だと思っています。
「必然」とは過去に対する意味付けで、その基準がはっきりしないことが特徴です


ここでいう過去とは、昔というに限らず、今現在より前の時間の全てを含みます。
つまり、全て結果が出たわけでなく、進行中の出来事に対しても意味付けができる。
進行中の出来事に必然を感じるとは、建築中の家の土台を固めるようなものです。
そしてそれが自分の家である場合の必然とは、「自分固有の必然」です。

だからそれは諦念とか無常観とか、国破在山河などとは違います。
それらは心が平らな状態ですが、「自分固有の必然」はもう少し躍動しています。
いや、躍動という言い方はおかしくて、「何に流されるかの違い」かもしれません。
自分の外の大きな流れに流されるのか、あるいは内なる流れに流されるのか。


僕はこの「自分固有の必然」を見つけようとしている気がします。
あるいは、それを見つける作法を身につけようとしている。
お分かりと思いますが、これは「自分が何をするか」が問題ではありません。
「自分が何かをした時、それに対する自分がどうあるか」が問題なのです。

そしてまた、「自分固有の必然」は受動的なものだけではありません。
きっかけは外から与えられ、その意味付けを能動的に行うと上に書きました。
けれど、きっかけが与えられても、それに気付かず過去に埋もれてしまう場合がある。
記憶の奥底に、深層意識に埋もれたきっかけを探し出すのも、能動的な働きかけです。


その自分に感じる必然を他者に広げられるかどうか。
これは創作でもあり、コミュニケーションでもあり得ると思います。
生活の中に色々と生データはあって、それらが文章化(情報化)待ちになっている。
そう、確言できるのは、僕がしたいのは「情報処理」ではなく「情報化」なのです

そのために培うべきことが、たくさんあるような気がします。

 今は「情報」という言葉があまりにも普通に使われているから皆さんピンと来ないかもしれないけれど、自分が見ている世界を言葉にする時、それ一つだけをよく見れば書けるというものではないんです。それを書くためには、他のことをたくさん、しかもよくわかっていないと、的確に表現することはできない。
 これに対して、あの人はこう言っている、この人はこういっている、これとこれは理屈でいえば矛盾しているだろうとか、あそこにはこう書いてあったとか、そういう他の人の言っていることや書いていることを上手に整理してまとめていくのは「情報処理」なのです。
 ものを書く、ものをつくるとは、情報化をすること。「情報化の作業」と「情報処理の作業」はまったく違うんですよ
「第四章 意識は暴走する」p.129(養老孟司×久石譲『耳で考える』)
抜粋は養老氏の発言