human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「瞬獄殺的歩行」について

ヒドいタイトルですが…前の記事↓に関連するような話です。cheechoff.hatenadiary.jp

静かに歩こうとして、「体重移動を感じないのが理想では?」とふと思いました。
体重移動とは、右足を踏み込めば右足または右半身に偏る、ということです。
踏み込む以上それは避けようがないはずですが、実はそうでもない。
右足の踏み込みに対して、身体の他の部位がそう感じなければいいのです。

たぶん普通に足を踏み込めば、全身がその足に寄りかかる体勢になる。
そうではなく、右足を踏み込んでも、地面に対応するのは右足近傍に留める。
残りの部位は例えば、左前方に進もうとしたり、浮き上がろうとしたりすればいい。
「体が重い(歩み)」や「軽い足どり」があるのだから、可能だと思います。

(身体の全細胞の平均をとれば止まっているように歩く、とか?)

前にも抜粋しましたが、話はこれ↓と同じで、事実より感覚ですね。

アレクサンダーが、二本の足が重力に依って大地から引っ張られていると考えるのではなく、むしろ頭部の頂点が天から引き上げられることをイメージして歩くとスムーズに動けると主張したのもその一つであった。(…)確かにわたしが実際に天から引き上げられていると想像して歩いてみると、まるで操り人形の様に足が軽くなったと感じられたのである。それまで足を持ち上げながら歩いていた時と違って、歩くということは、地面の前方に足を片方ずつ軽く添えるだけでいいと理解出来た。
「序章」p.21(矢萩喜従郎『平面 空間 身体』)

物理法則は無時間(瞬間)やらバルク(物体の均質性)といった、
系を理想化することで初めて完全に成立するという側面があります。
不均質極まりない、そして実は不定形な身体に、それがどれだけ当てはまるか。
それを測定評価するのは自分の身体で、これを僕は人体実験と呼んでいます。

アメーバ的ものさしで測るのを、無意味と思うか、意味の宝庫と思うか。

今日のことわざ

感覚は事実より気なり
→まんまですね。

匙加減を投げる
→男の料理ですね。