human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「待ち方」について(後)

前回↓の続きです。cheechoff.hatenadiary.jp

自分のことを書こうと思ったのですが、それはやめることにしました。
ちょうど今日の昼休みに読んだ小田嶋氏の記事↓のことがあります。
僕の部屋は世間から隔絶されていて、その意味では氏が今いる病室と変わらない。
そしてそういう場所では、簡単に過去に囚われて、現在が浸蝕されてしまいます。business.nikkeibp.co.jp

まあ、思考的日常にはその種のトラップは付き物で想定内ではありますが、
何にせよ疲れている時に選ぶテーマでないことは確かです。
ちょっと前に「残業月間」みたいな話を書きましたが、どうも常態化しそうで、
来週の頭で一区切りつくはずなのですが「区切っただけ」だったらどうしよう…。

というわけで、「彼女」の気持になってみることにします。

「ある限られた時間に待つことを集中してしまうと、もうそのあとはどうでもよくなってしまうの。それが五年であろうと、十年であろうと、一ヵ月であろうとね。同じことなのよ」
村上春樹羊をめぐる冒険(上)』(講談社文庫)

前回抜粋した中の下線部をもう一度引いてきました。
こういう待ち方は僕は(何を待つにせよ)したことがないので想像してみます。
きっと「予定を立てる」みたいな頭で整理できる話ではない。
期間を決めるのは頭でも、それに身体を同調させることがポイントのように思えます。

そして、決めた期間のあいだは、待つことが生活の一部になる。
なにかにつけて彼(作中で「鼠」と呼ばれる男)のことを思い出す。
彼のことや、彼といた時のことを思い返し、気付けば日が落ちかけている。
それが時間の浪費になり得ないのは、「無駄な生活」などというものがないからです。


さて、そのような意識を頭でもつだけでは、未練が生じます。
決めた期間が過ぎても、やはりズルズルと過去に縛られ続けることになる。
一方で、この日まで待つと決めた、その次の日にはスパッと割り切る方法がある。
それが「身体で待つ」ということで、では具体的に如何なる態様であるのか。

…思いつくところで、たとえば「月曜は燃えるゴミの日」みたいな感じでしょうか。
意識せずとも、日曜にはゴミをまとめてベランダに置き、月曜朝に回収場へ足が向く。
決まりごとが身体化するのは習慣のなせるわざです。
ただ、習慣は継続的なものであって、節目に対してはネガティブに作用しそうですが…

あるいは、最後の日に「儀式」を執り行うのかもしれません。
印象的な記憶を集中して脳裏に蘇らせ、激しく咽び泣く、とか。
そういう劇的な行為は節目にふさわしくもありますが、実はその基礎は習慣にあります。
普段から感情が高ぶる経験をしていれば、劇的な行為も作法として身についている。

女は強いのだなあ、ということですね。知りませんけど。