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引っ越して落ち着いたらタイトル考えます(仮)

本格的に本と関わっていきます。

原宗教的性質について

cheechoff.hatenadiary.jp

レヴィナスを読み始めて(↑)からもうすぐ二月が経ちます。
ページが半分強は残っているので、読了はあと二月後になるのでしょう。
タルムード*1の本文が何を言っているかは、正直全然わかりません。
が、レヴィナスの「これはこう言ってるんだよ」という内容=構造の話は分かります。

その内容が無尽蔵にあるようで、これは知的にとてつもない魅力を感じます。

 何が問題になっているのか。メシアの名を推測しようとしている。三つの可能性が提示された。シロ、イノン、そしてハニナである。この三つの名はそれぞれシロ、イノン、ハニナを奉じる学徒の師の名に似ている。メシア的パーソナリティが開示される経験はこうして弟子と師匠の関係に至りつく。厳正に知的であるはずの師弟関係がメシアとの出会いがもたらす豊かさの一切をそのうちに含んでいる。きわめて顕著なのはこのことである。師弟関係が預言的テクストの約束をそのスケールにおいて、その細やかさにおいて補強しうること、これがこの一節の最も驚異的な新機軸である。
(…)
師から弟子への関係はいくばくかの理念を相互に伝え合うことに存するのではない。この関係がメシアニズムそのものの最初の光輝なのである
「Ⅱ 註解 ⅴ メシアは誰か」p.112-113(エマニュエル・レヴィナス『困難な自由』)

僕が読み取れた構造に関する記述にいくつか下線を引きました。
ここにある師弟関係とは「教義化される前の宗教の形」ではないかと思いました。
為政者が政治的に宗教を利用する前の、原宗教とでも言えるような。
この原宗教の魅力は、その内実とは別に、あらゆる新興宗教にも含まれるのでしょう。

この部分を読んで連想した、なだいなだ氏の著書の一部を抜粋してみます。

B「始祖の去ったあと、弟子たちの犯した一番大きなあやまちは何だと思うね」
 Tは考え込んだ。そしていった。
T「弟子意識だろうな」
B「弟子意識?」
 ぼくは鸚鵡返しにいった。
T「そうだ。いつまでも始祖たちを先生として意識し、かれらを超えられなかった。(…)」
(…)
T「もっと悪いのは、始祖たちの言葉が経典化されたことだ。(…)その過程で、これが正しい解釈だと、正統化が行なわれたのだ。その結果、経典は単なる文字ではなく、聖なる本になってしまった。紙に書かれる前は人間の言葉だったものが、紙に書かれたとたんに、人間の言葉でなくなってしまった。聖なる物になってしまった」
B「じゃあ、弟子たちはどうしなければならなかったのだ」
T「時代が変われば状況も変わる。経典に書かれた言葉は状況に合わなくなる」
B「それは当然だ」
T「だから弟子は、もし師がここにいたならどういうだろうか、想像して、あえて自分の言葉で語るべきなんだよ。ところが、聖なる本のどこどこにはこう書かれている、と書かれた言葉が規範になってしまう。新たな呪縛だ。これが皮肉にも二千年の後退りの第一歩だったかもしれない」
 Tは平静な、だが残念そうな表情で答えた。
B「二千年の後戻り? いいことをいうね。聖物崇拝は、部族社会への逆戻りだ」
「第4章 二千年の後退り?」p.94-97(なだいなだ『神、この人間的なもの』)

なだ氏はこの章で、三大宗教のそれぞれの原点と教義化について考察しています。
始祖たちの生身を介した言葉が文字になり、経典化されることで身体性が失われた。
緻密に組織化された宗教の教義に従う限り、原宗教の恍惚的体験は得られない。
組織の揺るぎなき安定が、所属する個人に与える安心は確かに大きいとは思いますが。

一方で、ユダヤ教には原宗教的性質を維持する仕組みがあるのでは、と思いました。

 私も遠慮なくこのテクストについてもう少し無理のない解釈を述べさせていただく。聖書の原テクストを解釈するときには慎重になってなりすぎという事はないと前に述べたが、それは聖書テクストについてはタルムードがすでに何事かを語り終えているからである。だがタルムードの諸テクストに対しては大胆な解釈が許されている。というのはタルムードはじかに読者の知性に訴えかけ、註解を励起し、つねにダルシュヌー*2を語っているからである
同上 p.117(『困難な自由』)

構造が知的に開示された宗教の宗教性は、教義にはないのだと思います。
それは知の自律的発展に身を委ねる中で生まれる熱意、かもしれません。
あるいは宗教的なものが乱立する現代では、ユダヤ教は宗教ではなくなってくる。
ユダヤ教はきっと、盲目を許さないからです。

「宗教の必要性は宗教の外側から語らねばならない」ということかもしれません。

*1:内田樹氏の訳注から一部抜粋します。「(Talmud)ヘブライ語で「学習、教理」の意。「タルムードはイスラエルの口頭伝承を転写したものでユダヤ教を信仰するユダヤ人の日常生活、儀礼および思想──聖書釈義を含む──を規定している」(レヴィナス『タルムード四講話』)。」

*2:これも内田氏の訳注より。「不詳。おそらく「釈義」「説教」の意のヘブライ語。」