「溜まる消耗」について
「何かを選べ」と言われた時に「どっちでもいい」と言って相手の望む選択を提示(暗に強要)された時、「そういうことではないんだ」を説明するロジックを思い付いた。自分はその選択の結果には拘泥しないが、選択(行為)の質にこだわるのだ、と。そして強要された時点で選択の質は目に見えて落ちる。
— chee-choff (@cheechoff) 2014, 10月 14
結果主義、効率主義、功利主義が時に見せる「人としての醜さ」をうまく言葉にしていかないと、簡単に飲み込まれてしまう。常識はいつの時代も内容に関係なく同じように常識として機能するが、その質の低下を問いたければ労力を要しても抵抗し続けるしかない。
— chee-choff (@cheechoff) 2014, 10月 14
これを呟いた時になにかとても不愉快なことがあった、というのがよく分かる。
「功利的イコール現実的」という等式を当たり前に思う人が時々いる。
そういう人は、自分に利する可能性を全くもって厚顔無恥に追求できる。
そのあまりにも「これが常識です」的振る舞いを前にして、どう思うか。
自分の信念を守ろうとその振る舞いに流されずにいることは、かなり消耗します。
が、この消耗を避けることが反知性主義につながるという確信があります。
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消耗、と書きましたが、すり減るのは体力であってそれ以外のものではありません。
言いたいのは逆に「消耗しなければ"つるつる"になる」ということです。
だとすれば、消耗することで"ごつごつ"したり、何かが溜まっていくことになる。
溜まるのは鬱憤かもしれない。知識ではない。あるいは機微か、想像か、解釈か。
その存在を示す方法のひとつは文学で、まあ文学が流行らないわけですね。