human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

「解釈の超出」について

神秘(ソッド)はタルムード神秘学では聖典の究極的意味を意味する。(…)真の神秘は、文字通りの意味よりもっと簡潔ななかに始原の簡潔性のなかにあると言う。ただしこの始原的意味がその変わらぬ簡潔性において明かされるのは、ただ歴史の全行程が踏破された未来世界においてのみである。そのためには時間と歴史が必要である。最初の、最初よりもっと「古い」意味は未来なのである。解釈を超出するためには解釈を経由しなければならないのである
「Ⅱ 註解」p.81-82(エマニュエル・レヴィナス『困難な自由』内田樹訳)

抜粋部の文脈は説明できる力量がありませんが、書きたかったのは最後の一文です。
僕の中では馴染みの表現で、内田樹氏の著作で何度も読んだからかもしれません。
前に書いた「脳化社会では脳を研ぎ澄ませて身体に至る」というのも同じ構造です。
が、今日この部分を読んで、なぜか前に読んだ池澤氏の本の一節を連想しました。

「まさかあなたは、われわれがやったあれくらいのことに彼らが感謝すると思っているわけではないでしょうね? あなただって、ただ行儀よくふるまっただけで感謝が得られるなどとは思わないでしょう? (…)そう、ここでわれわれがブッシュマン南アフリカはカラハリ沙漠の狩猟民〕たちにどれほどのことをしたように見えても、彼らにすればそれはちゃんと育てられた人ならばするに決まっている正しい礼儀のようなものなんですよ。もし立場が逆だったら、彼らは何のためらいもなくわれわれがしたと同じことをしてくれるでしょうが、それに対して礼を言われるとは思っていもみない。そうなんだ! その場で『ありがとう』ということは、あなたがそんなことをしてくれるとは思っていなかったとほのめかすこと、つまり遠回しにあなたを侮辱することなんですから」
「狩猟民の心」p.63-64(池澤夏樹『母なる自然のおっぱい』)

いつか「現代は常識を論理的に語らないといけない」と思ったことがあります。
そしてそれは身体でなく脳を基準に社会が構築されるようになってからだ、と。
しかし、話が飛んでいますが、多分もっと大きいスケールで考える必要がある。
「解釈の超出」は、人が言葉を使い始めた時から変わらない自然な運動なのです。

言葉を紡ぐことが、そのまま言葉を祝福するような、自然な運動。