human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

変化のこと(8)-ハウスワーカ的ブリコルール

主婦も主夫も、性別が出てくるので時に使いづらいですね。
「主婦」はだんだん肯定的に使われていますが若干古めかしく、
「主夫」だとイクメンとか急にポストモダン(?)な感じがします。
かといってタイトルみたく書くと被雇用者みたいですが、まあ「韻」重視で。

ハウスワーカは、ブリコラージュをその基本哲学としています。
つまりハウスワーカは同時にブリコルールでもあります。
生活は身体と深く関わるので、本来は不確実なものです。
予期しないちょっとした変化に対して、その都度の工夫が求められます。

「本来は」と書くのは、生活の構成要素が便利になれば不確実性は減じるからです。
家事にしろ、子育てにしろ、収支バランスにしろ、不確実性はリスクと見なされる。
本質的に孕む「生活の変化」が、予期できるもの、予定に組み込めるものとされる。
たぶん現代は、建前としてはこのような考え方が「良きもの」とされています。


前置きを頑張るといつも大きな話になりますね。なんだこれ。
話を戻しまして、生活の工夫は、生活と共にあるものです。
最初から便利な道具を揃えると、工夫の芽が摘み取られる、こともある。
便利は「何かの目的のために効率を上げる」のですが、生活の省略は何に向かうのか?

という考え方もありますが、まあ僕は工夫を要するような生活を心掛けています。
まず「生活の方法に変化をつけず、構築した習慣に基づいて淡々と暮らす」こと。
生活の方法が一定であれば、自分自身の変化があった時に気付きやすくなります。
そして、そうやって時々起こる変化が招く不都合を、すぐには解消しないこと。

その不都合を自分を変えないで解消する一つの方法は便利なものを買うことですが、
僕はなるべくそうではなく、別の二通りの道をとるようにしたいと思っています。
一つは、自分が変わることで不都合を解消する方向。
いま一つは、同じく自分が変わることで、不都合を引き受ける方向。

その不都合に縁があったとすれば、どう転んでも自分は何かしら変わるはずです。


今度は抽象的な前置きになってしまいましたが、本題です。
上で「不都合を引き受ける」というのは、ある意味ペンディングでもあります。
そしてそのまま不都合が生活の一部になるか、はたまた時を経て何か思い付くか。
本記事で書こうと思ったのはこの後者の例です。


夕食はいつも家で食べますが、メニューは平日2種の休日1種という内容です。
休日1種は肉の種類がちょこちょこ変わりますが、基本方針はどれも共通です。
で、いつも肉をフライパンで焼いて、焼きながら食べつつ玄米の上にものせます。
ご飯茶碗に肉がのるので、食べた後は茶碗が油でテカテカすることになります。

食器洗い用のスポンジは「通常用」と「油もの用」の2種類があります。
「油もの用」はフライパンや上記の茶碗を洗う時に使うのですが、
油こってり容器をそのまま洗うとスポンジは短期でギトギトになります。
それでスポンジを2個消費した後、先にキッチンペーパで拭き取ることを覚えました。

が、キッチンペーパを頻繁に使うのが精神的に慣れない気がしていました。
洗えば落ちるのに、余計なゴミを増やしているような感覚がありました。
下水に流す油の量はペーパで拭いた方がもちろん減りますが、
それとは別に、またエコ的観点でもなく、道具を増やしたくない思いがあります。

今思い起こせば、という形で書いていて、当時そう思っていたかは不明ですが、
いつかの夕食時に「食べながら油を落とせばいい」と思いつきました。
具体的には、夕食のメニューには味噌汁が毎日含まれているのですが、
油のついた茶碗の玄米を食べた後に、その茶碗に味噌汁を入れて飲むのです。

また、上に平日2種と書きましたが、それは肉or魚と豆腐or納豆ということです。
このうち肉は数ヶ月前から「チーズ入りハンバーグ」(3個入¥298)に固定されていて、
これはデミグラスソースがかかっていて、つまりそれを入れる皿も油がつくことになる。
もちろんこれも「油もの用」スポンジ担当になり、彼の寿命を縮める要因にもなる。

話はちょっと逸れますが、毎日飲む味噌汁の具はちょくちょく変遷を繰り返しています。
最近は味噌をインスタント(具と一緒に袋入りのもの)からパックに変える、という
大きな変化がありましたが、その中に入れる具はその変化の少し前に落ち着いています。
その詳細は前に書いたので、脇道ついでに張っておきます。

この具の中で麩はわりと初期からずっと使っている気がしますが、
話は戻ってこれまたいつかの夕食時に、この麩が「使える」と思ったのでした。
つまり、ハンバーグを食べた皿に味噌汁の麩を移せばスポンジ的役割を果せるわけです。
麩によってこそげとられたソースは、味噌汁に混ぜられることになります。

上で味噌汁を茶碗に入れた時も、肉の油が味噌汁と混ざるわけです。
このどちらも、味噌汁の深みが増す方向の変化で、味に問題はありません。
ただ、もちろん行儀という観点では赤点ものですので、一人暮らしならではですね。
そしてつい最近、上記に加えて3つ目の工夫を思いつきました。


茶碗を油でコテコテにする肉はもともと、フライパンで焼かれました(当然ですが)。
すなわち茶碗に増して、フライパンはコテコテになっているわけです。
肉を焼きながら食べつつも、このフライパンに対しての処理は手つかずでした。
もちろんそれはその発想がなかったからなのですが。

また話は逸れますが、フライパンの油がもったいないとは初期から気付いていました。
その利用法として、肉を焼いた後のフライパンで「簡易チャーハン」を作っています。
本格的には炒めず、油が米に移るまで軽く炒める、という意味での「簡易」です。
炒めた後はフライパンに米がこびりついているので、水を入れておきます。

そして味噌汁の方ですが(まだ話は逸れたままです)、味噌をパックにしたものの、
上に張った記事の通り味噌汁は煮込まずに熱湯をかけるだけで作っています。
味噌がちゃんと溶けずに沈むのは煮込まないせいかもしれませんが、それは別の話で、
つまり夕食を作る時には必ず、味噌汁用のお湯をケトルで沸かしています。

そのお湯を(話が戻ってきました)、またまたいつかの夕食時に、
「(肉を焼いた後の)米を炒めた後のフライパンに入れよう」と思いついたのでした。
熱湯をフライパンに入れて、スプーンで焦げを取りつつかき混ぜて、そしてもちろん、
それは「味噌汁用の熱湯」なので、味噌汁に入れるわけです。

このようにして味噌汁はまた一段と味に深みを増し、
また食後の食器洗いにおいてキッチンペーパを使わずに済むようになったのでした。

キッチンペーパ「実家に帰らせて頂きます」 <終>


なんだこれ。