human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

融通無碍について

 僕らは、あなたを驚かそうと思った。そして僕らはあなたを弱い女よと呼んだ。
「弱い女よ、僕らは、征服者になるのだよ」
(…)
「そうなったら、僕らはあなたの恋人だ。奴隷よ、僕らのために詩を読め……」
 しかしあなたはもう読んでくれなかった。あなたは本を押しやった。あなたには自分の生命が不意にはっきり感じられた、ちょうど若い樹木が、日当りのよい種子が、成長し発育するのを感じると同じように。理由は自然がかくあるべしとなすものは、至るところに現れるのだから。僕らは寓話の中の征服者でしかなかった。それだのに、あなたは、自分の羊歯や、蜜蜂や、山羊や星に根底を置いて、蛙の声に耳を傾けたりして、自分の生命の自覚を、夜の平和の中からあなたの身のまわりに湧き上がるこの万物の生命から、またあなたの爪先から頭の先まで、あなたのうちに湧き上がる、説明しようもないと同時にまた確かな、この生命力からくみとるのだった。
「南方郵便機」p.158-159(サン=テグジュペリ『夜間飛行』)

融通無碍、という言葉があります。
彼女は、自分を含めたその場に全幅の信頼を預け、思うがままに振る舞う。
他らは、彼女に意識が囚われ、その一挙一動に注目せずにはいられない。
彼女の自由と、彼らの盲目とが、融通無碍の「状況」を成立させる。

これは、個人の資質ではなく、観察対象も含めた状況評価の表現です。
当人は自分の融通無碍を自覚しないし、できません。
飄々とする、でもいいですが、なろうとしてなるものではありません。
それを意識する時、観察者(他者でも、自分でもいい)が必要となります。


詩的な抜粋の下線部にシビれました。
ある状況(モード)に没入している時の、不意の変化にゾクッとくることがあります。
その変化に追従できない時、対象との絶対的な距離に戦慄する。
あるいは、わずかでも追従でき、相手がそれを認めるようなことがあれば…

後者は『有限と微小のパン』(森博嗣)の、四季に相対する犀川の心境ですかね。
前の連想の続きみたいになっていますが、しばらくこういう時期は続きそうです。
下線部の「理由」がよく分かりませんが、たぶん因果か契機くらいの意味でしょうか。
脳と身体が何の支障もなく主導権を渡し合う様に、脳は理想の自然を見出します

抜粋の「僕ら」も「あなた」も、子どもなのです。

 ベルニスのこの手紙を読みながら、ジュヌヴィエーヴよ、僕は目を閉じた。そして少女の日のあなたの姿を幻に見た。あなたは十五歳、僕らが十三歳の時だ。僕らの思い出の中で、どうしてあなたが年を取ったりしよう? あなたは昔のままのかよわい娘として残っていた。僕らがあなたのことを人の噂に聞く時、あなたのことを思い出す時、その後、いつも僕らが呼びかけるのは、そのかみの少女のままのあなたであった。
同上 p.154