human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「村上春樹的測量術」のこと(後)

続きです。

前回は話がごちゃっとしていて、しかしこれはまとまりそうにありません。
たぶん、僕が日々念頭にあることをこの測量術とやらに詰め込もうとしている。
それはもちろん無茶な話で、単に「生活」とか「日々の思考」の言い換えになる。
ハルキ氏の名前を勢いで借りてしまったので、なんとかそちらに収束させたいです。

 話は逸れますが、「収束」とは一般的には一件落着、落ち着く様を指します。
 が、元々は数学用語で、「ある値に限りなく近づく」ことを意味します。
 それは「ある値に定まる」に限りなく近いのですが、同じではありません。
 高校数学Ⅲのlim(x→∞) 1/x →0 というやつです。漸近線ですね。

 で、そちらの定義を日常に借りるとすれば、「意味は定まることはない」ですね。
 文章を書くのは、辞書の編纂と違って意味を固定していく作業ではありません。
 ある程度固まった意味の単語を並べていき、意味以前のものに形を与える作業です。
 個々の単語の解釈の幅が文章に使われるごとに、複利計算的に文章の意味は拡散します。

 という言い方は単純計算で実情に沿っていませんが…話を戻します。

僕の日常の思想として、「"どうするか"より"どうあるか"」というものがあります。
また、最近何かを読んで思った「夢は叶えるのでなく見るためのもの」というのもある。
後者は簡単で、夢は叶えたらおしまいではなく次の夢を見るわけです。
「"叶えるために見る"のではなく"見るために叶える"」といった方がいいかもしれません。

この夢の話は"To be to do"という思想と似ているのですが、どう書けばよいか…
ずっと前に、状態の微分が行動である、と書いた気がします。
その伝でいけば行動の微分(状態の2回微分)は予測になるでしょうか。
そして未来予測が現在に繰り込まれるハイテク社会は「空回り自転車操業」という…。

違う話ですね。単純に言えば、「何をしても充実したい」という意思のことです。
自分から行動を始めるにしろ、人から与えられるにしろ、その状況を充実させたい。
それは究極的には行動を選ばないことで、充実要素として内容に先んじるものがある。
それが例えば、前回に触れた「行動から教訓を導く力」となります。


教訓は、未来に向けられています。
が、「失敗は繰り返さない」という単純なものではない。
「失敗を繰り返すことにも理由はある」という教訓もあるからです。
「教訓を導く力」は、状況に依存した教訓を編み出し、そしてその教訓は未知なのです。

前回に、経験への教訓の適用が生む快と不快の話を書きました。
人によるかもですが、経験を既知に還元されて安心する人と怒る人がいそうです。
また逆に、自分の経験を解釈不能と言われて喜ぶ人がいれば嘆く人もいます。
僕のいう「教訓を導く力」は、その解釈不能に挑み、未知を充実させるための力です。

脳化を自覚する助けになる、と書いたのは、未知に対して敏感になれるからです。
未知か既知かは、文化の蓄積とは別に、個人の感覚としては主観的なものです。
つまり色んなことを素通りして(忘れて)いけば、些細なことにも驚くことができる。
そして既知に繰り返し驚けるのは、驚くという経験自体が上滑りしているからです

教訓はさしずめ、この測量術の目盛といったところでしょうか。


と、いうことで無理やり落としました。いつかリベンジします。