human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

視界の輪郭と空間の輪郭について

三次元世界を平面的世界へ置き換えることとは、立体であるものの、たとえば球面の様に、形が輪郭に向かって曲面を持っている(つまり奥行きを感じられる)形状の一番際の部分を、球面の一番出ているレベルまで強引に引き上げ(あるいは逆に一番出ている箇所を一番置くにあるレベルまで押し込むことでもかまわない)、同じレベルにして平面的世界にすることだ。
「第1章-[2] 平面的世界の考察」p.42 (矢萩喜従郎『平面 空間 身体』)

僕は小学校の頃、アトリエに通っていたことがあります。
絵を描いたり、木で工作したり、凧揚げをしたりと色々な活動をしていました。
水曜の放課後に歩いて行ける距離のアトリエで何かしら作業をするのですが、
時期の催しがない基本活動である「お絵描き」が苦手、というか嫌いでした。

「何でも好きな絵を描け」と言われて、周りの子どもは嬉々として画用紙に取り組む。
僕はその「何でもいい」が分からなくて、風景の絵ばかり描いていました。
何を描けばいいかが思い付かず、泣き出してしまったこともありました。
想像力がなかったのではなく、アウトプットの仕方を知らなかったのだと思います。

それを習う場であった気もしますが…何か実物を見て描くのは嫌いではなかったです。
自分の握り拳を描いた記憶がありますが、上手くはなく、間延びした平面的な絵でした。
描き始めた部分から再現性良く丁寧に描こうとして、全体のバランスが崩れていました。
当時細かい迷路を書くのが好きで、きっとその要領で端から紙を埋めていたのでしょう。

「何もない所から始める」のが苦手なのは、きっとアトリエでの経験によると思います。
課題解決能力、パターン認識は得意な方で、受験勉強はそれが良い方にはたらきました。
ただパターン認識は理解とは違う、と気付いたのが遅くて(大学で卒研を始める前)、
地頭の悪さに自信を失って、理系から足を洗おうと血迷った時期もありました。

結局洗い切れずにどっちつかずでフラフラした結果がまさに今の仕事内容とピッタリで、
というか…どうも昔話が変な方向に行ってしまったので元に戻しますが、
僕が絵を描いていた頃は「ものは輪郭から描く」と当たり前に思っていました。
遠景の木を描くなら、茶色で幹の輪郭、緑で葉の輪郭を描き、その中を塗り潰す…

本当にそうやって描いていた絵(想像)がまざまざと浮かぶのでちょっと怖いですが、
今僕自身が好きで絵を描こうと思ったら、そのような描き方はしたくないです。
(仕事で特許明細書の図面のスケッチを描く時はもちろん輪郭しか描きません)
たぶん、エッジの利き過ぎた空間を好まないようになったのだと思います。

やや消極的な自然志向や、裸眼で外出するようになったことが関係していそうです。
近視の左目はたぶん0.4くらいで、危険ではないですが、遠くの輪郭はぼやけます。
その目で遠くの山や空、雲を眺めるのですが、街中を歩く時より違和感は小さい。
つまりもともとエッジが利いていないから、くっきりでもぼやけても一緒なのです。


最初に書こうと思ったことにやっと辿り着きました(という割に脈絡がない)が、
輪郭に対する意識は、個の境界へのこだわりと相関していそうだと思います。
普段の視界で自分自身は見えませんが、自分もその見える視界の一部だと考えます。
ぼやけた視界というのは、自分がその空間に溶け込んでいるイメージを喚起する

ただ視界のエッジと実際の空間のエッジはもちろん違っていて、
単に視力が悪ければ、輪郭ばっちりの都会でもぼやけた視界を体験することになる。
そのような食い違いは身体性への信頼を時に損なうこともあるだろうと思います。
ぼやけた視界から突如エッジが飛び出すことは本来輪郭の曖昧な空間ではあり得ない。

都会で暮らすにおいてはどう振る舞おうとも、都会に吸い込まれてしまうのですね。


話を最初に戻しますが、二次元と三次元は思いのほか複雑に絡み合っているようです。
人は網膜に映る二次元の像を脳が三次元に変換することで視界を三次元に認識します。
だから画用紙の絵を三次元的に見ることは可能で、しかし一方で都会は二次元的です
奥行きがあれば三次元という捉え方を変えてみると、なかなか面白いかもしれません。

カギは、空間を感じる身体性にあります。
ということで矢萩氏の著書の要所を読み返していこうと思います。