human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「平日和書」のこと

日課の読書2冊がちょうど一緒に入れ替わりを迎えました。

最近何度か抜粋した池澤氏の本は先の金曜に読了し、
長い付き合いだったブルデューの本は昨日読了しました。
後者は半年以上かかっています(そしてまだ上巻…)が、
「読み終えた!」ではなく「次の本が来るな」という感覚の方が大きい

平日に和書と洋書(の翻訳)を交互に読むというのがその日課で、
池澤氏の次はどれを読もう、とりんごをかじりながら本棚を眺めていました。
最近の読書傾向を鑑みて偏らないよう「少しハズしたもの」を選ぶのですが、
その基本方針とは別に、縁が発動するとその縁を大切にしたくなる時もある。

自分が今読みたそうな本に目星をつけながら視線を移していて、
ふと目に留まった本を引き抜いて、帯文を見て、読み始めることにしました。
それが関川夏央氏の著書↓で、決めてから、いつもなら選ばないなと思いました。
決定材料は帯文でしたが、なぜ手に取ったかを考えると、縁が浮かんできました。

退屈な迷宮―「北朝鮮」とは何だったのか

退屈な迷宮―「北朝鮮」とは何だったのか

同じ寮に住む同期からNational Geographicを6月分借りていたのですが、
ずっと読まずに借りたまま、その同期が寮を出てしまったことを最近知りました。
さすがに返さねば、と思い先の日曜に2月分を集中的に読んだのですが、
日常的に読む雑誌ではない、と思いながら読むと引き込まれるのですね。

写真だけ眺めていても十分興味深くて、写真に誘われて解説文を読むという感じ。
覚えているのは、事故死したコアラが十数頭並べて横たえられた写真、
香港の高層住宅群とビル屋上のほったて小屋とビルの隙間の貧民街の写真。
…おととい読んだばかりですが、引き出すつもりで読んでないのが明らかですね。

関川氏の本を手に取ったのは、たぶん香港の街並が連想されたからです。
そうでなければ、テーマが非日常的で「平日和書」に選ぶはずがない。
帯文が中に誘ったのですが、まえがきで早速引き込まれることになりました。
僕も氏と同じく「外国よりももっと多く日本に興味のある」人なのでした。

 北朝鮮の基本的な姿勢は一九四八年の建国以来一貫している。すなわち北朝鮮は日本の一般的な世論のごとく、一九八七年の十一月末、大韓航空機爆破事件から突然「悪くなった」わけではない。北朝鮮は変わらないのである。変わったとすればそれはわたしたちの考えであり、わたしたち自身である。(…)どうも日本側だけの都合で北が悪くなったり南がよくなったり、あるいはその逆だったりしているような気がしてならない。
 その意味で、朝鮮半島は日本と日本人の「戦後」時代を映す鏡である。ときにはうぬぼれ鏡であり、ときには化粧の下の荒れた肌までうつしだす、残酷なほど澄明な鏡である。すなわち日本社会を流通する時代の気分によって曇り澄む都合のよい(悪い)鏡である
朝鮮半島は日本の「戦後」時代を映す鏡である─まえがきにかえて」 p.2-3(関川夏央『退屈な迷宮』)

思いついた脳内BGMはクロノトリガーの「みどりの思い出」です。
ゲームの内容はもう記憶の外ですが(中世のフィールド曲だったかな?)、
この曲には薄暗い、不透明というイメージがあります(良い悪いも不明、という)。
そういう意味で相性の良さを感じましたが、さてどうなりますか。