human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

現状維持から変化へ(3)〜変質するナチュラルについて

前回↓の続きです。


 医療には正常か異常かという観点だけで、全体を水に個別的な課題に努力を傾注するという一面があります。でも倫理は、病気は避けるべきとか、難病を持つことが不幸なことかどうかとか、あるいは子どもがいないことや精神病であるということが人間にとって克服すべき課題なのかどうかといったこと自体を、まず問題にしなければいけない。
(……)
ノーマル、アブノーマルという言葉は、じつは非常に政治的です。(…)「普通」にはnormalとnaturalとがあるのです。そして、私たちがnaturalなど思っているもののなかには、じつはnormalが紛れ込んで擬装しているというケースが非常に多いのですね。(……)医療における倫理の問題は、ナチュラルなものにテクノロジーがいったいどこまで立ち入っていいのかという問題でもあるわけですが、私たちはそこで直面するナチュラルなるものが、そもそも本当はノーマルがナチュラルを擬装したものに過ぎないのではないかということを常に疑ってかからないといけないわけですね。
「第Ⅲ章 死と「私」の哲学」p.132,135-137(鷲田清一『教養としての「死」を考える』)

前回に「思考は本来的に身の丈を超える」と書きました。
そして「思考の延長としての身体性の追求は危険である」とも。
言いたかったのは、「まずは脳の領域を思考によって明確にする」です。
「考えない」に至るために、まず「考えるとは何か」を知るということです。

前回のこの話と、抜粋の後半の下線部はリンクしています。
これは「身の丈に戻るための"疑い"(=「不問の前提」の分析)」なのです。
頭で理解している倫理が、身体感覚に一致しているかどうか。
他人事だと思っていた事態が自分に降り掛かって、同じ認識でいられるかどうか。

この抜粋の後には、「発明は必要の母」と書いた僕には耳の痛い記述があります。

 たとえば、ウェアラブル・コンピューターなどの技術が進んで、人間が日常生活において、自分の足で歩かなくともやっていけるときがくるとします。そうすると、人間の足がどんどん退化していきますね。(…)つまり、技術によってナチュラルそのものが変化してしまうわけです。(…)ということは、ナチュラルもそもそも技術が介在した人間の恣意的な規範によって決定される、文化と政治の問題の一つだといっていいということになります。
 これは少しいい過ぎになるかもしれませんが、科学者はそういう技術開発の専門家でありながら、一般にすべてをナチュラルだと思い込んでいる単純な人たちだといってもあながち間違いではないような気がします。そんな悪口をいわれないようにしてほしいと思いますけれどもね
同上 p.137

基礎技術の開発者と応用技術の開発者が違うことは、当然にあります。
そして応用技術を現場で実際にどう使うかが、技術者に委ねられることもある。
あるいは製品のエンドユーザが、技術者の想定しなかった使い方を思いつく。
これらは技術の発展に寄与する仕組みで、当事者が疑う余地はないように見える。

科学技術の累積性が「単純な人たち」を単純なままにさせるのだと思います。
既存技術が開発のスタートで、それは乗り越えるべき前提になります。
これは専門家以外は乗れない列車のレールをどんどん延長させる作業です。
線路がどこに続くかは分からない、到達点が見えないからこそやりがいがある。

良い悪いではなく、その思想が招く状況についての想像が必要だと思っています。
ノーマルは当然に変わり、ナチュラルだって変えられていく可能性がある。
しかしその変質したナチュラルとは、一体何なのか。
それは本当に、みんなが望んでいたもの(状態)なのか。

過去をどんどん忘れていくことは、この想像を放棄することに等しいのです。