human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

"身近"な著者と「ままごと」のこと

文章には、様々な階層において意味があります。

辞書的意味を組み合わせた「一般的な意味」に加えて。
その文章はいつ、誰が書いたのか?
その文章は、書かれたのか、話されたのか?
その文章は、母国語か、外国語の翻訳か?

それらの情報によって、同じ文章にも異なる意味を与えることがある。
それは「意味」ではなくて、「解釈」なのかもしれません。
様々な「解釈」の中で、えいやと決めたものが「意味」なのでしょうか。
あるいは、ニュアンスとは、「意味」なのか「解釈」なのか。


ある著者の本を読む時は、上記の諸階層が「誰が書いたか」に集約されます。
その人の生きた(生きている)時代、出身、生い立ち、執筆スタイル等々。
それらの情報が著書の内容のニュアンス(行間にあるもの?)に影響を与えます。
しかし、そもそもそれらの情報そのものに対して、読み手の解釈が作用します。

この「著者に対する読み手の解釈」が、読み手が受け取る著書の内容を位置づけます
批評的に読む場合は、この解釈があまり幅を利かせないように読むことになる。
そうでなく、個人的に(第一に読み手自身への影響を考えて)読む場合は、
この解釈を最大限に発揮して「読み手と著者の関係」の構築に取り組むことになる。

たとえば、読み手が著者との、ある共通の性質や経験を発見したとします。
すると、その共通点が「梃子」になり、著者の他の経験や思考が身近になることがある。
前に「"これは自分に向けて書かれた本(文章)だ"と思える幸福」について書きました。
「自分が宛先である」という飛躍(秘薬!)的解釈がまさに「梃子」の原理に因ります。


前置きが長いですが、僕がこう思える頻度の高い著者が、何人かいます。
もちろん何冊も読んで著者を詳しく知っていけば、何かしら共通点は見つかるものです。
けれど、その自分と著者の共通する何かが、著者の思想と関係する程度は様々です。
その関係が根本的であることが、もっと著書を読みたいと思う理由の一つとなります。

折角なので脇道に逸れますが、「書きやすい」共通点についていくつか書いてみます。
たとえば村上春樹は、右目と左目の見え方(ピント?)が違うらしい。
村上朝日堂のエッセイによれば、執筆中にぼーっとしたい時などに視界を「ぼかす」。
僕も左右で違っていて(左が近視、右が遠視)、昼と夜で使い分けて遊んでいます。

また養老孟司は「女難」(強烈な姉や母との生活)のために30代まで女性嫌いだった。
これは日経ビジネス隈研吾氏との対談記事(かなり最近)に書いてありました。
僕はといえば、「女子社会」の中学校吹奏楽部で女子恐怖症になった経験があります。
高校からは徐々に回復していきましたが、今でも引きずっている部分はあると思います。

そして保坂和志ですが、前に「軋轢を墓碑銘とする」と書いた話に関連します。
詳細は忘れましたが、学校や職場での軋轢が氏の思想の基礎となったらしい。
僕が経験した軋轢は、かつて明示的であり、今書けるものとしては院生時代*1ですね。
今の僕の基本的な思考姿勢は、その当時を生き抜くために身体に染みついたものです。


上で「書きやすい」とか「今書ける」などと書きました。
そう書くからには「書きにくい」あるいは「今は書けない」があるわけです。
その理由もそれに含まれるので書きませんが、ではなぜ「これ」を書いているのか。
いずれは(おそらく何年も後ですが)書かずにはいられなくなるから、でしょうか。

(まあ、こういう書き方をしたものは大抵「書いたことによって薄れていく」のですが)

誰かといえば岸田秀で、有休をとった昨日一日で氏の著書を一冊を読み終えました。
氏の本は三冊目で、最初に抱いた「僕が読むべき人(本)だ」という思いは変わりません。
そして、あまりに手に負えないながらも、何か書かずにはいられなかったのでした。
というわけで、読みながら「ちょっと思ったこと」を抜粋とともに書いておきます。

「発散」というよりは「(僕の中のなにかの)供養」だと思います。よう知らんけど。

+*+*+*

 人間は本能が壊れ、現実を見失った動物であるから、人間は誰でもみんな本来は現実感覚が不全なはずである。(…)人間の子供は、本能としての現実感覚が壊れているから、まず初め、非現実の世界、空想の世界に住むことになる。彼が現実を発見するのはフラストレーションを通じてである。もしかりに、すべての欲求がただちに満たされ、何のフラストレーションもなければ、人間の子供はいつまでも現実を発見しないであろう。フラストレーションを通じて現実を発見するということは、彼にとって現実は、まず、苦痛なものとして現れるということである
「現実感覚の不全の原因」p.91(岸田秀『唯幻論物語』)

 年始の実家でのことですが、兄夫婦が姪と甥を連れて実家にやってきました。
 姪とは毎年一緒に遊ぶのですが、今年は(僕は)初めて「ままごと」をしました。
 恐竜(手を入れる穴がある)と鼠(恐竜と同程度の大きさ)のぬいぐるみがあり、
 木のブロックやジェンガらしきプラスチックのブロックが箱に入っていました。
 姪は恐竜を手に取り、鼠に話しかけたので、僕は鼠を手に取りました。

 「恐竜さん、おなかすいた。鼠さんもいっしょに、ごはんたべよう」
 ─お腹空いたね、食べよう食べよう。
 「(ブロックをとって)トーストと、トマトと、たまご!」
 ─へえ、トーストとトマトと卵だね。
 「ぱくぱくぱく。おいしいね!(恐竜の穴にブロックを入れる)」
 ─ぱくぱく。うん、おいしいね。
 「鼠さん、おなかいっぱい? のこってるよ」
 ─(姪が目を離した時にブロックを自分の背中に隠す)うん、食べるよ。ぱくぱく。
 「たべたら…トイレにいきたくなる。トイレいこ」
 ─そうだね。トイレに行こう。
 「トイレいきましたー。戻ってきましたー」
 (……)

 子ども(姪は4歳)とままごとをしたのは初めてだったかもしれません。
 流されながら始めるもいきなりだったので、僕のセリフは全部棒読みです。
 主導権は完全に姪にあって、僕はほとんど姪のセリフを繰り返していました。
 もちろん僕に創造的要素や意外性が求められているとは思いませんでした。
 姪が進める場の展開は奔放で唐突で、ついていく僕の頭の中は真っ白でした。
 姪の調子に合わせる、ということだけを考えていました。
 そして、そうやっている限り、全く終わる気配が感じられないのでした。
 その日は僕が実家から戻る日だったので、だんだん時間を気にし始めました。
 けれど、姪が取り持つ場の展開が滞った時の声色に、僕の心は痛むのでした。
 ここに至って、「子育ての苦労」のことを思いました。
 日常的に、当たり前のように、子どもに悲しい顔をさせなければいけないのだ。
 たぶん、そんなことは親になってしまえば、すぐ慣れることだとは思います。
 しかし今の僕は、「慣れることで失うもの」の方がよく見えてしまうのでした。
 それはきっと今の僕が、独りでいることが当たり前の生活をしているからです。


抜粋部分を読んだ時に、この姪とのままごとのことを思い出しました。
ままごとを途中で止めることは、姪にとって「苦痛」でした。
すぐ気移りするので、それは一瞬のことでしたが、僕はそれを回避したかった。
しかし、この「苦痛」こそが、姪が現実を知っていく経験となるのでした。

だからままごとにずっと付き合っていると姪を甘やかすことになる…
という話をしたかったのではなく、僕が抜粋から連想したのは別の部分でした。
それは、ままごとが「非現実の世界」「空想の世界」だということ
この非現実(空想)は現実が元手ですが、その拝借の仕方が凄く恣意的なのです。

ということを、姪とのままごとから実感できるなあ、と思ったのでした。
上の回想で「トーストとトマトと卵」をブロックで表現したことを書きました。
卵(じゃなかったかも…)は忘れましたが、トーストは黄色、トマトは赤を使った。
色はある程度実物を再現していて、でも形はぜんぶジェンガの直方体なのです。

その選択の過程(空想と現実の繋げ方)は、僕にもトレースできないことはない。
ですが、あれだけのスピードで、そして自信満々に宣言することはできません。
(「これはトーストでこれはトマト…」と、躊躇なく当たり前に言うわけです)
これはつまり、現実(ブロック)と空想(食事の場)の距離が近いということです。

大人でも、空想を膨らませることはいくらでもできます。
しかし「現実と空想の距離」は、一度離れるともう近づくことはないのではないか
少なくとも社会人としてまっとうに生活する限りでは、起こり得ないのでしょう。
大人は子どもといる間だけ、「神話的時間」を取り戻せるのかもしれない。

ちょうど目の高さの所に『神話的時間』(鶴見俊輔)が見えたので使ってみました。
また読み返してみようかな…たぶん、もう一つきっかけがあれば。

神話的時間

神話的時間

*1:このテーマの具体的なところは、社会人1年目の時に「院生時に書いていた"苦痛な"文章」に解説コメントを付ける形でまとめたものがあります。「院生時の苦悩」を「今書いている」とかけてink nowというタグを付けています。inkは動詞では「署名する」なのでシャレとしてキビしいですが。ついついリンクを張ってしまいますが、僕は今読み返したいとは全然思っていなくて、でもいつかまた別の軋轢にふんじばられた時に読めば有益かな、とは思っています。