human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

象徴的暴力のフラクタル性について

昨日の意欲が別の所にいきそうですが、読んで、考えてしまったので書きます。

 象徴的暴力は、赤裸々な暴力が不可能である時に暴力がとる穏やかで隠然たる形式であるが、そうだとすれば、婉曲化の労苦をお払い箱にしてメカニズムの発展が要求する「魔術から解放された」心的傾向を産み出すようになる客観的メカニズムが作りあげられるにつれて、支配の象徴的形式が徐々に消滅してきたことも理解できることだ(27)。また、「経済的」搾取の最も粗暴な形態が惹き起した転覆・批判勢力の発展ならびに支配関係の再生産を確保するメカニズムのイデオロギー的・実践的効果の暴露が、経済資本の象徴資本への転換に基づく蓄積様式への回帰を惹き起すことも理解できる。


註(27) 諸集団(…)あるいは社会階級の間で行なわれる現実の定義をめぐるイデオロギー闘争の中で、錯認され再認される暴力、したがって正当な暴力としての象徴的暴力に対して、錯認を廃棄することで支配者からその象徴的力の一部を奪う仲裁者の自覚が対立する
「支配の様式」p.220-221,276(P・ブルデュ『実践感覚(上)』)

抜粋部の前半の下線部は、前のレジス・ドブレ抜粋+αと同じ話に思えます。
「徐々に消滅してきた」象徴的形式とは、あくまで「かつての象徴的形式」です。
現代の象徴的形式は、この「徐々に消滅」あってこそ現代で機能していると考えられる。
あるいは、かつてのそれが暴露され、無用の烙印を押されてこそ影響力を増した、とも。

これは後者なのではないか、と読めるのが抜粋部の後半の下線部です。
「回帰」とある通り、現代の支配様式は昔に倣って確立しようとしている(されている)。
これを矛盾と感じるとすれば、その感覚は被支配者的思考に起因しています。
なぜなら、無用の烙印を信じているのが被支配者(だけになった)だからです。

話が多方向に繋がるので収拾がつかなくなりますが、ひとつだけ。
抜粋の「客観的メカニズム」の解明というのは、科学の発展の一部です。
科学的思考はこれまで分からなかったことをどんどん解明していくように思える。
しかし「分かったと思えば(形を変えて)後景に退く」のが象徴的形式の特徴なのです。

そういえば「象徴的暴力」の本書での使われ方(意味)について抜粋していませんでした。
下に抜粋しますが、これは原理的な話なので現代でも通用します。

高利貸しや無慈悲な主人の暴力といった公然たる暴力が集団の弾劾に会ったり、暴力的な反撃あるいは犠牲者の逃亡を惹き起したりする(…)限りは、象徴的暴力はシステムの経済に最も適合しているがゆえに最も経済的な支配様式として押しつけられる(ここで言う象徴的暴力とは、穏やかで眼に見えない、暴力としては否認される、蒙ると同じ程度に選び取られる、そうした暴力であって、信頼・義務(債務)・人格的忠誠・歓待・贈与・負傷・感謝・あわれみの暴力、一言でいえば名誉の道徳が讃えるすべての美徳の暴力である)。
同上 p.210

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最初の抜粋の中で、註の下線部にだけまだ触れていませんでした。
この註そのものは「象徴的形式が徐々に消滅してきた」ことの具体例です。
が、今の僕に対してはその本来の内容以上のものを訴えかけているように思います。
自意識的曲解かもしれませんが、昨日書き始めた話とリンクしているような…

註の下線部の修飾語をはぎ取ると「象徴的暴力に対して自覚が対立する」です。
両者の主語は、ふつうに考えると支配者(支配様式)と被支配者、となるはずです。
ある一つの社会(における支配の形式)の話をしているのだから。
けれど、この対立は一個人の中にもあるんじゃないかな、とふと思いました。

あまり簡単に書くとアレですが、これは「ずっと抱え込んでいくべき対立」なのでしょう。