human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

現状認識から行動へ(1)〜必要と不安について

…最初は「必要」について考える記事のはずでした。

何度も書くと言いながら投稿するのをためらっていたテーマです。
僕自身関心がとても高いテーマなのですが、考えを進めるうちに、
進んでいたはずがいつの間にか立ち止まり、後ろ向きに縮こまってしまう。
リンクする本が増えていく中でも、なかなか状況が好転しませんでした。

好転という言い方は変ですが…元は単にスッキリするために書くわけではない。
一日で書き切れず、また言葉が浮かばず何日も悩むテーマこそ求めているとも言える。
「一日一記事」みたいなノルマは長期テーマへのモチベーションを貶めることになる。
それはそれでその通りなんですが、いや、ためらっていた理由はこれではなかった。


「必要」について考えるのは、誰にとっても、自分の根っこを掘り起こすことになる。
真面目に考えれば考えるほど自分の生活の「不問の前提」が俎上に積み重なっていく。
これは深みに嵌ると抜け出せなくなるたぐいのテーマだと気付きました。
なぜ気付いたかといえば、個人がこのテーマを「現状認識」で扱うのは最悪だからです。

現状というのは、自分のことだけではなく、広くは社会も含まれてきます。
始めは「自分の必要」であったはずが、それを掘り下げると社会と繋がってくる。
それに気付かず「これは自分のことだ」と考え続けるのは、不毛な哲学です。
自己の現状認識は自分と直結しますが、社会の現状認識はそうではありません。


実はこの部分は下に続く引用&コメントの前置きで、下は一月前に書いたものです。
書いていてだんだん憂鬱になってきて、まとまらぬ下書きのまま放置されていました。
それを掘り起こす気になったのは上記の気付きがまずあったからですが、結果的には、
それに至るために鷲田清一氏と森博嗣氏(の著書)の力を必要としたのでした。

橋本治氏は日本社会のことをまるで我が事のように書くことができる。
まるで「社会が俺に含まれてんだ」と言わんばかりに、です。
だから氏の文章を読んで没入すると、氏のその感覚をも体感することになる。
それは権力とは別の全能感をもたらすがしかし、パンピーにはあまりにも重荷でもある。

「社会の必要を我が事のように考える」のは、負荷が激烈にせよ、有益でもあります。
しかし現状認識のスタンスでそれをやるのは最悪、と上では書きました。
最悪の中身は書きませんが、大切なのは、「動き出すために考える」ことなのでした。
自分の必要は社会とつながり、それを把握する意味は、それをスタートとすることにある。


今日書き始めた時に書こうとしていたことに、実はまだ辿り着けていません。
そして何を隠そう、上を書いている間にそれを忘れてしまいました(T-T)
ただ、書くと踏ん切ったからには後々浮かんでくるだろうと思っています。
形は変わっても、きっと、その時に出てきた言葉が「書きたかったこと」のはず。

という意気込みで、なんとか前向きに書いていきます。
長くなりそうなので連載仕立てです。
ワシダ氏と森氏の著書の引用は次の投稿で書けるはずです。


+*+*+*

 バブルの時代に当たり前になった生き方というか、バブルの時代から当たり前になってしまった生き方というのは、私に言わせれば一種の「採取経済」で、「自分からなにかを作る」ということをしない。なにかを作るのは、他人あるいは機械の担当することで、金儲けを考える人間は、進み行く時代の流れの中で「なにが金儲けのタネになるか」を考えて、なりそうなものを他人に作らせる。「時代を読む」とか「時代の先を読む」というのはそういうことで、「時代を読む」ということは、「金儲けのネタになりそうなものを探す」ということでもある。(…)これが「バブル以後の時代の基本前提」のようになっているから、きっと話はややこしくなる。どうしてややこしいかというと、時代が「物を作って金儲けをするか、物を作らないで金儲けをするか」の二択ではなくて、「物を作って金儲けをする」の上に「物を作らないで金儲けをする」が乗っかっている二重構造になってしまっているから。
「二○○九年一月号 分析しても分析しても、それは「過去」しか指し示さない」p.227-228(橋本治『明日は昨日の風が吹く - ああでもなくこうでもなく インデックス版』)

この「物を作らないで金儲けをする」の代表として流通が挙げられています。
生産者と消費者が離れていれば、流通がなければ売買が成立しない。
農業・漁業の卸業や運送業が流通=モノの移動の仲介を担っている。
しかし氏は「物を作らないで儲ける」業態の存在はある誤解を招く、と言う。

誤解というのは、「物を作って儲ける」が経済の根本で、しかし「物を作らずに動かして儲ける」という経済活動もある──ということの先に「だから働かないで金儲けをすることもある」という考え方が生まれてしまうことですね。「時代を読む」とか「時代の先を読む」などということがもてはやされてしまうことの後ろには、こういう誤解が絶対にあると思う。
 「物を作って儲ける」と「物を動かして儲ける」が経済活動として成り立っている──成り立ってしまうのは、この両者に共通する「物」の上に「必要な」という限定が乗っかっているからですね。(…)しかし、その「必要な物が満たされてしまったらどうなるか?」というところで、ややこしい第二段階が始まる。
同上p.230

働く=物を作る、という認識が当たり前だった時代が長くあった。
そして流通はもちろん、物を作る仕事があって初めて成り立つ。
が、時代が流れて現代では、生産と流通の立場が逆転している。
それを前提にしてしまえば、誤解が常識になってしまうのだと思います。

前回の最後に触れた「必要」というキーワードがここに出てきます。
僕は外から(他人が、マスコミが)「必要」と言った時にいつも考えます。
その「必要」はどの程度の必要性を指示しているのだろう? と。
自分が必要と思えないものを他人が必要と言った時には、特に。

仕事ではよくありますが、立場上で建前として言われることはあります。
同じ会社の成員として社内の価値観を共有していれば、別に気になりません。
あるいは「必要と言えばそれが必要になる」という形もあります。
「必要は発明の母」が、気付けば「発明は必要の母」にすり替わっている。

 豊かな時代というのは、「必要が満たされた」というところから始まる。後は、ただ単純に「必要を満たす」ということを繰り返すだけになる。ただ繰り返すだけだから単調で、それは「豊かさを維持する」に止まって、「豊かさを増大する」にはつながらない。豊かさをそれ以上増大させるには、新しい「必要」を発見して、これを満たして行くことが必要になる。しかし、「必要」というものはもう満たされているのだから、「新しい必要を発見する」ということは起こらない──それは論理上「矛盾したこと」になる。だから、方向は「矛盾」へと向かう。つまり、「不必要なものも必要だ」という置き換えですね
 「不必要なものを必要だとして置き換える」ということは、経済の方では「需要(ニーズ)の発見」とされて、これを矛盾とは思わない。
同上 p.234

市場主義社会に生きる人には耳の痛い話ですが、考えれば当然のことです。
この抜粋で言われる「必要」は、おそらく「身体の(有限な)必要」です。
脳が生み出す無限の欲望に対する「必要」とは、次元が異なる。
当然なのは、際限のない経済の右肩上がりは後者の「必要」とセットだということ。

それはどこかで破綻する、というのは既に日本社会は経験済みです。

つまり「好景気が長く続くとバブルになる」で、ここに「好景気とは豊かさが当たり前のように存在している状態である」ということを代入すると、「豊かさが長く続くと、必要が満杯状態になっているから、すぐに溢れる」ということになり、「豊かさ=必要な物が満杯になっているという状態の中に注ぎ足されて”景気を刺激する”と言われるようなものは、不必要な物だけである」ということになる。根本が「不必要なもの」で、「必要なもの」は満杯になるから、「不必要なものへの集中」が起こって、そこはあっという間に「好景気」として膨れ上がって、すぐにはじける──よく考えてみれば、こんなことは「昭和って終わりうるもんなんだな」と思った頃に、大体分かってはいた。
同上 p.232

前に、現代人の不安について考えたことがありました。
「豊かさ」が獲得されるのでなく前提になると、それ自身が不安の源となる。
上の世代がそれに気付かなかったのは、時代の変化が早過ぎたからです。
そして豊かさが前提になったのは現代で初めてで、人間はまだ慣れていない。

(ここまでが一月前に書いた部分で、さて…)

時代の変化が早いことと、人々が短期的に物事を考えることとはリンクします。
時代の変化とは未来においては予測が立たないことで、つまり予定が立たない。
予定が立たないことは考えてもムダで、合理性が通用する直近を議論すればよい。
ただこのリンクは循環していて、その循環の始まりは何も示していません。

…なんとか次に繋がる終わり方をしたいですが、元のテーマの話に戻ると、
「不必要を生み出し続ける現状」という見方には、確かな妥当性があります。
「不必要を必要とする」ことで社会が回ってはいて、その認識が活きるのは、
「それは不必要だからやめろ」と指摘することではありません。

人が意識をもった以上は「必要」は複雑になります。
一定の傾向はあれ、集団の間で異なり、個人の間でも異なります。
どの「必要」が妥当かは、もちろん集団間・個人間で完全には一致しない。
指標(実質的か、正しいか、sustainableか、…)は多く、その基準も多様である。

この現状認識(も次に続くかもですが)が、個人の行動に、どう繋がるのか。