human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「方法論」について

註(13) <"かまえ(disposizione)"=もののみかた、ふれかた>という意味での理論について、メルッチは「現実を単に当たり前のもの、明白なものとして見てしまわないための、リアルな現実をとらえるためのある種のフィルター、現実がもつ意味について問いを発するためのレンズとなるような理論です。必ずしも統合された一般理論ではなく、現実にふれようとするときに、その土台として分析の指針となりうるような"かまえ"を必要とするということを言いたいのです」(…)と考えていた。
「他者を識る・"旅"の始まり」註 p.264(新原道信『境界領域への旅』)

「曇りの無い目で見る」という表現があります。
「色眼鏡」で見ず、バイアスを取り除くことで出来事の本質を見抜く。
しかし元々、思考するための特定の言語(例えば日本語)が一つのバイアスです。
日本人とアメリカ人の考え方の違いの一部は確実に、日本語と英語の違いに起因する。

ひとつ、「曇りの無い目」とは子供の目だと考えることができる。
論理に熟達する前の、思考とではなく身体性と深く結びついた目。
言語化以前の段階では、偏見も誤解も存在する余地がありません。
身体は正直であり、そんなことはないと思うのは、脳の解釈です。


抜粋にある「ある種のフィルター」や「レンズ」から、身体を連想しました。
一般理論はありふれてこその一般ですが、身体は個人にとって唯一無二の存在です。
ありふれた理論は、一定の理解に帰着し、個人間に共通認識をもたらす。
一方の身体は、唯一の個体同士が触れ合って「共有感覚」を各々別個にもたらす

分析を進めていくと、どうしても要素還元的になり、全体性から離れていきます。
分析は統合とセットなのですが、社会の専門分化が進むと分析に偏ってきます。
始めは脳と身体の共同作業だったのが、だんだん身体が置いてけぼりをくうようになる。
「統合に戻ってこれるように」分析を進めるには、身体の介在が欠かせません。

これは僕の解釈ですが、抜粋の「フィルター」とは自分の身体由来のものではないか。
もしかすると、その「フィルター」を通した思考は、他者に理解できないかもしれない。
けれど、「フィルター」を通した思考には自分の身体、唯一無二のものが宿っている
それは「リアルな現実」に自分の思考で触れる一つの方法になるのではないか。


上の抜粋から連想した別の本の部分を下に引用します(抜粋は全て養老氏の発言)。
本記事で僕が書いたのは、上と下の引用をリンクさせるためでしょうか。
僕は下記の「方法論」という言葉に強く反応しました。
今思えば、これが欲しくて僕は4回生の時に配属される研究室を選んだのでした。

その研究室のテーマは「(最適)設計工学」というものでした。
世の中の様々な、複雑な問題に対して「最適解」を導くことができる。
それは「"浅く広く"でツブシが利く」という理由で工学部に進んだ延長の選択でした。
「ツブシ」の認識は当時とだいぶ変わりましたが、根っこの価値観は多分そのままです。

たとえば「意味はあとからついてくる」とか。あるいは本ブログのタイトルとか(ふふ)。

 僕は、たいがい執筆を頼まれた雑誌からテーマを与えられれば、何でも楽に書けてしまうんです。なぜなら、テーマを与えられれば、それを料理すればいいんですから。では、なぜ何でも料理できるのかというと、それは方法論という包丁を持ってるからなんです。では、その方法論って何だって訊かれれば、「それは解剖学ですよ」ということになるんですね
 でも、そういう意味で、学問を方法論として身につけている人って、ほとんど見たことがないんですよね。(…)
 解剖学というと、名前ばかり教えるだけでつまらないだろうと言うけれど、そんなにつまらなかったら、僕が一生やってるわけがないだろうという、それくらいの想像力もないんです。そして、その面白さというのは、方法論の面白さなんだということは、日本の教育では、ほとんど抜けていますね。本来は方法論だから、応用がきくんですよ。だから、昔から基礎医学と言うんですよ、と言ったって、それは言葉の上の話だと思ってる。
「第三章 自分の頭と身体で考える」p.136-137(養老孟司甲野善紀『自分の頭と身体で考える』