human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

実践的否認について

 「貧乏人に贈与するために富み栄えるのだ」と言われる。これは利害関心の実践的否認の模範的表現であって、この否認はフロイトの否認(Verneinung)のように利害関心を充足させるのを許すが、利害関心を満足させているのではないのだということを明示する形態(没利害の)をとってのみなされる(…)。(…)「贈与の仕方」、そのやり方や形式は、贈与とギヴ・アンド・テイクとを、道徳的義務と経済的債務とを分つ点である。形を与えることは、行動の仕方や行為の外的形式をもって、行為の内容と行為が内に含んでいる潜在的暴力を実践的に否認させることである(12)

註(12) アルカイックな諸社会が美しい形式を愛好する人々に芸術のための芸術を至上命令とする生き方の魅力を与える事実を理解するためには、形式を与えるために注がれる時間と労力がそこでは〔われわれの社会よりも〕ずっと大きいことを知れば十分である。

「第一部第八章 支配の様式」p.208-209, 273(P・ブルデュ『実践感覚1』)

前に同じブルデューの抜粋付きで書いた象徴の話とも関連します。
関連というか、前に書いた意味不明な話が僕の中ではこれでかなりすっきりしました。
一言で表現すれば「(論理の)実践的否認を通じて象徴が機能する」のですね。
このことは後半にまた触れるとして、まずは今回の抜粋について少し書きます。

日本語のせいかもしれませんが、下線部の「充足」と「満足」の違いが分かりいにくい。
考えるに、「満足」は「その基準を我がものとして足りる」であり、
「充足」は「その基準が機能していることは認めつつとりあえず”のる”」ではないか。
言葉が不足していますが…まず機能している場所とは例えば「世間」でしょうか。

基準を認めつつ我がものとはしない態度は、換言すれば「役割分担の意識」でもある。
抜粋の話でいえば、貧乏人に贈与できるのは富を有する人だけ、ということです。
日本と欧米がごっちゃになっていますが、つまり「ノブレス・オブリージュ」です。
利害を超越した人間が一定数いないと、集団における利害調整がうまく機能しない。

このメカニズムは、利害関係の水準(だけ)で考えると矛盾しています。
損得に拘らない人が結果的に得するのはおかしい、と(思う人は)思う。
しかしそれが実際起こりうるのは、実践の一部は論理の外にあるからです。
実践的否認は「論理を認めつつ論理を実践に引き込む」と表現できるかもしれません。


ちょうど今併読している本の中で、本記事のテーマの好例となる記述があります。
今回もご多分に漏れず、上の抜粋を読んでいてこの記述を連想したのでした。
しかも昨日読んだ部分なので、ついシンクロニシティを感じてしまいます。
話が抽象的なほど、具体的な記述とリンクする可能性が高い、ということでもあります。

山では絶対に死んではならないというのはいわばスローガンである。(…)非常に大きな危難が待っていると知っていて出てゆくことと、絶対に死なないという標語とは矛盾する。だが、彼のように強い者ならばそれを自分の中に収めてしまえる。これが彼の何回も繰り返された出発の秘密である。行く前に徹底的に準備を積み上げた上で、死の可能性の方は主観的に否定して旅立つ。この矛盾は自分一人であれば心の中に収められるが、他人との間でそれを共有することはできない。そこのところに、植村〔直己〕がいつも一人で行ったもう一つの理由がある。一人だからこそ死の可能性を承知でなおかつ仮に死を無視することができるのだ。だから彼は何度でも出発し、何度でも帰ってきたのではないか。
「再び出発する者」p.154-155(池澤夏樹『母なる自然のおっぱい』)