human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

忘れないこと。(2011/09/04)

2011/09/04(日)15:56

店内
 Lブレンドコーヒー  ¥220



忘れないこと。


1)『いいひと。(21)』(髙橋しん)
  母と娘の間になかったもの
  家族で唯一共有できるもの
  …家族で共有した時間、記憶 (生)


「記憶は、思い出せば……。」
形を変えて身体に染み込むまでの時間
個々の出来事の可否ではなく、
「時間を共有した経験」そのものの暖かみを感じるまでの時間


「今の自分を形成するもの」に気付くこと



2)『悼む人』(天童荒太
  ”悼み”
  死者の愛した人、愛された人、
  感謝されたことを
     忘れないでいる。 (死)→(生)


時間の経過と同化
→時間は経たない方がよい?
 忘れてしまうから。


あるいは、
「時間の厚み」という蓄積
一人ひとりの具体が積み重なり、
世代・共同体・集団・人々 の営みが立ち上がる。
   抽象化?物語化?


「喪による喪の継承」 ←継承そのもの、の為に?



 これ(たぶん(1)と(2))と「時間差」との関係は…
 「待つ」ということ。  『TFKリターンズ』のウチダ氏

ここに挙げられた本は、その時に読んでいたのだと思います。
Veloceで読書したり思考する前には、当時もBookOffでマンガを立ち読みするのが常です。
だから恐らく『いいひと。』の読後の回想から連想が広がったものと思われます。
連想の(その都度の)メカニズムを探ると、自分の内奥を意識化することができる…

ハズである、という目的を、まあ限定するとアレですが、持ってやっているわけです。
うっすら見えたものをハッキリさせようとして、
でも元々うっすら見えたものはハッキリしていたものの後ろにこっそりいたわけで、
つまり「うっすら」をハッキリさせるとその背後の「さらにうっすら」の存在に気付いてしまう。


さて、メモの中では『悼む人』に、ひときわ思い入れがあります。
読中の脳内音楽にしていた「カクテル」↓を聴くと、今でもいくつか場面が浮かんできます。
主人公の静人(しずと)はあるきっかけから、故人の縁の地や人を訪ねて悼むための旅に出る。
その故人とは、旅先の新聞記事などで偶然知った、静人とは何の関わりもない人々なのです。

読んでいる間は別のことを考えていましたが、今思い出すとまた別のことが浮かびます。
これは共同体が希薄になり個人が砂粒化した現代の「共同体の成員を悼む作法」ではないか。
共同体が抽象概念になった今でこそ、小説(物語)の中で共同体意識を共有できる。
たとえば「静人がいれば、俺も独りで死ねる」という安らぎを、その効果と考えてよい。

実は、続編と思われる『静人日記』(天童荒太)が既に僕の手元にあります。
読みたいと思っているのは間違いないのですが、読む時機をうまくつかめないでいます。
上で「ひときわ思い入れ」と書いたのは、日常の価値観を揺さぶられた経験からです。
なんとなく、生活が落ち着いている時に読まない方がよい気がしています。