human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

歴史と無時間について

「未発の一揆」は、下記の鹿野政直の言葉による。

「日常性の根深さは、革命の一時的喧噪などものともしない」「実際には、一揆のときだけが異常事態で、その他のときはすべて静謐であったかのように歴史を描くのは、当を得ていない。不平・不満・いらだち・愚痴・怒り・歎き・悲しみ・あきらめ・そねみ、その他もろもろのかたちをとる秩序への違和感は、人びとのうちに不断に醸しだされてきているのが、むしろ常態で、その意味では一件の一揆は、無数の未発の一揆の延長線上にある一つの波頭としての性格をもつ。”平時”においてもそのように未発の一揆が反芻されるからこそ、一揆の記憶は伝統として生きつづける。そのヴォルテージの高まりが、ある瞬間に一揆として飛翔する。両者を完全に切断し、べつべつの領域に閉じこめるのは、歴史の真相を衝いていない」(鹿野政直、1988『「鳥島」は入っているか──歴史意識の現在と歴史学岩波書店p.128-129)

「二日目 山野河海から考える」備考9 p.268-269(新原道信『境界領域への旅』)

孫引きですが、新原氏は田中正造について書く中でこの抜粋を引いています。
田中正造足尾銅山鉱毒事件で明治天皇へ直訴した人物として有名です。
という説明は受け売りで、僕は「学校で習ったかな…」くらいしか記憶にありません。
書きたいのは田中正造や事件の話ではなく、「時間」の話です。

この抜粋を読み返して、「歴史とは"点”なのだな」とあらためて思いました。
世界で起こった有名な出来事は歴史の中で、すべて「瞬間」として位置づけられる。
歴史事件の年号には幅(期間)のあるものもありますが、同じことです。
どれだけ長い説明を要しても、出来事を一義的に説明し、理解できれば「点」になる。

一揆の記憶は伝統として生きつづける」とは、形を変えて語り継がれることです。
その形とは、語る内容でもあり得るし、同じ内容を語る人でもあり得る。
言い方を変えれば、形を変える記憶とは、まだ歴史になっていない過去の出来事です。
それが形を変える条件は、記憶の伝達に「生身が介在する」ことでしょう。


なぜこの抜粋について書こうと思ったかといえば、やはり連想があったからです。
実は前の日曜から、何の因果か三島由紀夫氏のエッセイを読み始めました。
ああいう顛末に至った人なので氏の言説にフィルターがかかるのもやむを得ませんが、
実は「橋本治が三島氏についての本を書いている」という別のフィルターもあります。

上の抜粋を読んで連想した三島氏エッセイの部分を下に並べてみます。
正反対の価値観で書かれているように見えて、単純にそうとは言い切れない。
上では「生身」と書きましたが、三島氏の言説に生身が介在していないわけではない。
身体性は濃密にあり、しかしそれを脳で完璧に統御しようとした点が最大の特徴です。

というのも誰かの受け売りな気がしますが…著書を読み進めれば分かるでしょうか。
今のところ、僕は氏の言説の内容よりはその「語り口」の方に興味を持っています

 われわれは、歴史にあらわれた行動家の一つの典型として、那須与一のような人を持っている。あの扇の的を射た一瞬に、那須与一は歴史の波の中からさっと姿をあらわし、キリキリと弓をひきしぼって、扇の的の中心に矢を当てると、たちまちその姿は再び歴史の波間に没して、二度とわれらの目に触れることはない。彼が扇の的を射た一瞬は、長い人生のうちのほんの一瞬であったが、彼の人生はすべてそこに集約されて、そこで消えていったように思われる。もちろん、それには長い訓練の持続があり、忍耐があり、待機があった。それがなければ、那須与一は、われわれを等しなみに押し流す歴史の波の中から、その頭を突き出して、千年後までも人々の目にとまるような存在にはなり得なかったのである。
「行動と待機」p.38(三島由紀夫『行動学入門』)