human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「やがて哀しき境界人」のこと

『やがて哀しき外国語』(村上春樹)を読了しました。
村上春樹の本のあとがきは、いつも「読みごたえ」があります。
本の内容のまとめなのですが、それは要約でなくて「濃縮還元」なのです。
この本のあとがきで、村上春樹も「境界人」だったことに今さら気付きました。

 そういう意味では、この本の「やがて哀しき外国語」というタイトルは、僕にとってはけっこう切実な響きを持っている。本の題にしようと決めてから、折りにふれてこの言葉が僕の頭に浮かぶようになった。(…)しかし「哀しき」と言っても、それは外国語を話さなくてはいけないのが辛いとか、あるいは外国語がうまく話せないのが哀しいということではない。もちろん少しはそれもあるけど、それが主要な問題ではない。僕が本当に言いたいのは、自分にとって自明性を持たない言語に何の因果か自分がこうして取り囲まれているという、そういう状況自体がある種の哀しみに似たものを含んでいるということだ。どうも回りくどい言い方になって申し訳ないのだが、正確に言えばそういうことになる。
 そしてたまに日本に戻ってくると、今度はこう思ってまた不思議に哀しい気持ちになる。「僕らがこうして自明だと思っているこれらのものは、本当に僕らにとって自明のものなのだろうか」と。でももちろんそういう僕の考え方は適切なものではないだろう。だって自明性についての問い掛けがあるということ自体が、自明性の欠如をはっきりと示唆しているわけだから
「やがて哀しき外国語」のためのあとがき p.281-282

「境界人」とは、集団に所属せず、集団と集団の間にいる人のこと。
あるいは、集団に所属していても、ある種の居心地の悪さを感じる人のこと。
高村薫の小説の主人公はみな、国や地域に挟まれた「下界における」境界人です。
それに対して春樹小説の主人公は「下界と異界に挟まれた」境界人だったのでした。


という話は本題ではなく、僕は抜粋部の「自明性」という言葉を前に考え込みました。
何か自分のことに関係していると感じて、本の内容から思考対象を自身に移しました。
その過程で「僕は自分のことを境界人だと認識している」ことを思い出しました。
思えば中学から今まで、気がつけば「集団に染まらない」ように行動していました。

中学は自分が物心ついた時期で、それ以前の記憶は細切れの断片しか残っていない。
つまり自意識とか反省とかをし始めたその時からの行動の傾向がそうだったのですが、
だとすればその理由は自分の「育ち」に求めるのが最もリーズナブルとなります。
「ゆくくる*1」的テーマなのであまり掘り下げずここでは簡潔な表現に留めますが…

「自明性」というのは、その中に浸りきることで安心感を得ることができます。
逆に、全く信用しきっていたそれに裏切られると、とてつもない疎外感がある。
今思えば僕は、その安心感にも疎外感にも、身につくほどの縁がなかった気がします。
「橋の下で拾ってきた」は親が子供に恐怖を与える作り話ですが、おそらく僕は…


そういえば抜粋の最後の文から、「自由を問えることは自由の証だ」を連想しました。
たしか保呂草潤平(『黒猫のデルタ』(森博嗣)からのVシリーズの主人公)が言っていて、
これは「自明性への問い掛けが自明性の欠如を表す」と逆だなあと思ったのでした。
が、考えるに、自由とは「思考の自由」であり、自明性とは「思考の無用性」ですね。

うん、飛躍を承知で言っていますが、とても年末な気がしてきました。

*1:僕は毎年、年末年始に帰省した時に「ゆく年くる年」というテーマで1年を振り返る長い記事を書いています。年を追うごとにその内容が濃密かつ広範になっていて(もはや1年を振り返る範疇を超えている)、まあ端的にいえば「その時の頭の中をごっそり開陳」みたいなテイストになっています。これこそ自分以外の読者を想定していない記事の典型なのですが…参考までに去年の分のリンクを張っておきます。