human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

せり上がる足裏について

一本歯の歯底に巻いていた靴下が、マジックテープが外れてとれました。

ラグの上を歩いていてとれたのですが、すると面白いことが起こった。
とれた左足でラグを踏み込むと、足の裏の感じが断然変わっている。
具体的には、平らなはずの一本歯の平板が「内側が凹んだ感じ」になった。
足裏の側面(?)まで木で覆われているような…これについて少し考えました。


歯底に巻いた靴下は、歯の角で擦り切れてももつように二重にしていました。
歯の角はもともと直角ですが、靴下を巻くことで曲面になる。
一本歯は前後だけの話ですが、底が丸いバランスシューズのような感じです。
そうして前後に揺れやすい履物に適応した後に、その履物がふっと安定すると…

ちょっと傾けばバランスが崩れる、という傾きでも微動だにしないわけです。
無意識の力加減に対しては「過剰な安定」と呼んでもよいかもしれない。
で、バランスシューズの丸い靴底を平たいと感じていて突然靴底が平たくなれば、
それを感じる方は「足裏の浮いていた部分がせり上がる」と思うのでは、と。


わかりやすいはずの喩えを使いこなせていないような説明ですが…
面白いと思ったのは、感覚が変わったのはあくまで「足の裏」だという点です。
歯底の靴下があろうがなかろうが、足裏を乗せる平板の表面は何も変わらない。
つまり、これは足裏の触感が歯底にまで延長していることを示す現象なのです。


このような例は程度の差はあれ日常には溢れています。
衣服に触れて接触に気付くのは、肌感覚が衣服表面に延長しているからです。
長髪が風に揺れるのを感じるのは、毛根の神経が毛先の動きを察知するためです。
本記事に沿った例としては、盲者の白杖の鋭敏な感覚を挙げることができる。

衣服などでは日常的過ぎて気付きませんが、極端なものをやるとよく分かります。
身体感覚は思った以上にフレキシブルに環境に適応することが、です。
「思った以上に」とは、言い方を変えれば「気付かないうちに」でもある。
現代ではこのフレキシビリティは、「利用する」より「戒める」方が大変です。

鈍感さの結果として「利用」できても、無意識に「戒める」ことはできないのです。


そしてあるいは、身体より脳の方が「適応の事実」に気付くことが困難かもしれない。

 僕は思うのだけれど、アメリカという国では「概念」というものが一度確立されると、それがどんどん大きく強くなっていって、理想主義的(and/or)、排他的になる傾向があるようだ。よく「自然が芸術を模倣する」と言われるが、ここでは「人間が概念を模倣する」ケースが多いみたいな気がする。この概念をイエス・ノオ、イエス・ノオでどこまでも熱心にシリアスに追求していくと、たとえば動物愛護を唱える人が食肉工場を襲撃して営業妨害したり、堕胎反対論者が堕胎手術をする医者を銃で襲ったりするような、まともな頭で考えるとちょっと信じられないようなファナティックなことがおこる。本人は至極真面目なんだろうけれど。
(…)
 安西水丸氏は「村上君の顔は最近僕の描く似顔絵にますますよく似てきたよ」とおっしゃるが、あるいはこれも「人間が概念を模倣する」ケースのひとつかもしれない。
「元気な女の人たちについての考察」p.160-161(村上春樹『やがて哀しき外国語』)