human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

農業と「普通の農産物」について

農業新聞の影響かもしれませんが、ここ最近は農業の記述に反応します。

諺に曰く。「農夫が勘定したら、種を撒かなくなる」。おそらくは、労働とその生産物との関係は、本当に知られていないのではなく、社会的に抑圧されているのだと理解しなくてはなるまい。抑圧される理由は、労働生産性があまりに低く、その結果、自分の労働からあらゆる意味を奪ってしまうのを避けるためには、農民は自分の時間を勘定しないようにしなくてはならず、(…)また、これとは外見上で矛盾するにすぎないことだが、時間の稀少性があまりに低く、かつ財の稀少性があまりに高い世界においては農民は、豊富にある唯一のもの、自分の時間を勘定を混じえずに支出する、つまり時間を浪費するより以上のことはなしえないからである。
「第一部第七章 象徴資本」p.194(P・ブルデュ『実践感覚1』)

農民(農業)に対して随分ひどい言いようだと思われるかもしれません。
もちろん抜粋前後の文脈もあるのですが、僕はこれをひどいとは思わない。
この部分を見て、どこかで読んだ「農業は産業ではない」を思い出しました。
どこだったかな…と考えると、橋本治氏のような気がしてきました。

工場なら、機械を止めたり動かしたりして「生産調整」をすることも可能だけれど、自然条件に大きく左右される農業では、それが出来ないから、「作り過ぎたもの=出来過ぎたもの」を廃棄して、市場に出回る農作物の量を調整することによってしか、農作物の値崩れを防ぐことが出来ない──というか、その出荷調整を始める段階で、もう「値崩れ」は起こっている。(…)つまり、「損」というものが存在する以上、ここには「生産にかかる経費」というものも存在していて、だからこそ「生産者の立場を保証する原価」というものもあってしかるべきであるはずなのだけれど、人は農業にあまり「原価」というものを発見しない。(…)どうしてかというと、それはきっと、人が農業というものを「農地さえあればなんとかなる自然まかせの産業」のようなものと考えていて、そこで働く人達の「人件費」をゼロのように考えているからだろう。(…)
 大体、農業は商品経済と相性がよくない。
「二○○八年九月号 ごはんとおカズを考える」p.177-179(橋本治『明日は昨日の風が吹く』)

ニュアンスがちょっと違いましたが、同じことを言っているように思います。
農業を商品経済にのせると、どこかで歪みが生じる。
「農作物の値崩れを防ぐために廃棄する」のもその一つの歪みなのでしょう。
これは期限切れ弁当の廃棄や立食パーティの残り物処分とも通じています。

「何かがおかしい」と思うのは、食べて生きる一人の人間としての感覚です。
(僕は学生の頃ボーイのバイトで、手つかずの料理をゴミ箱に放り込んだ経験がある)
この「おかしい現象」を正当化しているのは、市場経済の論理です。
現代の農家はこの「何かがおかしい」感覚を殺さずにはやっていられないと想像します。

上の抜粋の後では、江戸時代の米本位制や士農工商の話が展開されています。
とても要約はできませんが、「農業とは何なのか」が根本的に分かる内容です。
農業新聞ではTPPの記事が頻繁に出てきますが、農業は国内だけの問題ではない。
世界の農業と関係していて、さらには日本と世界の工業のバランスとも関わる。

 先進工業国となって世界一の経済大国となってしまった日本は、「世界中の富を独占するな」という海外からの圧力の下、農産物の輸入自由化を少しずつ認めて、日本の農家を犠牲にして来た。これに対して、日本の農家の生き残る途は、品質を改良して差異化を図る──つまり、手間隙をかける高級品を作るという方向しかない。(…)
「六千円の完熟マンゴー」というのは、その日本の農業芸術の達成の一つでもあろうけれど、食糧の自給率アップで重要なのは、そういう「高級品栽培の生き残り」ではないはずだ。普通の農産物を作って普通に暮していけるという条件がなければ、日本の食糧自給率なんてアップしない
 ところが「特別に手間隙をかけた高級品」ではなくて、「普通の農産物」になってしまうと、日本の国内品は「安い輸入物」に負けてしまう。
同上 p.186

この部分を読んで、僕は初めて食糧自給率の意味が分かりました。
工業と農業のバランスを含めた経済効率を追求するほど、自給率は下がる。
つまり国が儲けようとするほど、必然的に日本で「普通の農産物」が作れなくなる。
そして必要の観点でいえば、もはや日本の農業は「人の生」に直接は関われない。

この「必要」について、橋本氏を抜粋しながら次回に書きたいと思います。