human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

臍下丹田の位置について(1)

(…)そこで、私なりにこの丹田というものをいろいろ考えてみたのです。支点を消す動きという見地から見て行くと、腰とか、足の裏とかは、やはりどうしても骨がありますから、そこがいわゆる、さきほどから言っている明確な支点になりやすいんですね。
 ところが、腹というのは骨がないですから、腹の部分に支点を置くようにしても、普通の意味での支点とは、全然違うんです。感覚的に丹田を支点にしても居付きがなくなるというか、しっかりしていながら自由自在で具体的には技がますます利くようになるのです。しかし、論理的には、ある種、抽象的な概念になってきて、ますます、科学では扱いにくくなるわけです(笑)
「第一章 古武術と解剖学から世の中を見る」p.64-65(養老孟司甲野善紀『自分の頭と身体(からだ)で考える』)

これは養老氏と甲野氏の対談本で、抜粋したのは甲野氏の発言箇所です。
抜粋部を含め「丹田」の話を自分も実地に移すと「なるほど」と思った。
僕の実地とは一本歯やら和歩のことですが、その前に文章の話をします。
抜粋中の「骨がない」と「抽象的な概念」という部分にピンときたのです。


丹田を意識して」とは武道に限らず、芸能や座禅などでも言われます。
「へその下のこの辺り」とか具体的に言われて、なんとなく意識してみる。
「意識って、具体的にどうすんの」というもっともな疑問も湧いてくる。
「意識すれば違うでしょ?」と言われれば「せやろか…」と流される感じ。

というか、僕は人とそんなやりとりをしたことはないので想像ですが。
ただ何冊かの本に丹田のことが書いてあって「ふーん」とは思っていました。
「違いはようわからんけどプラセボつーか思い込みの域やな」といった。
そのような経験があって、本書の甲野氏の「論理」に開眼する思いがしました。


まず昔の人と今の人は身体の使い方が違う(これは前にも書きました)。
そして技能・身体操作を他者に伝える方法も昔と今で違います。
昔は言葉よりも実演・見取り稽古で言葉通り「体得」していた。
今はそのような機会は稀で、僕もそうですが言葉(文章)に頼りがちです。

あるいは、今でも稽古会や武術研究会に参加すれば体得は可能かもしれません。
が、そもそも師匠からして昔の人と身体操作が違っていれば、どうしようもない。
実演されても分からず、古い伝書を読み解こうとしてもよく分からない。
「伝書の超人的な記述はハッタリだ」と思えてしまうのも無理はありません。

ただなぜそう思うかといえば、伝書の言葉を現代風に解釈するからです。
昔と今とで言葉の使い方が違うなら、昔の書をそのまま読んではいけない。
つまり昔の身体作法を再現できるように昔の言葉を「翻訳」しなければならない。
そして翻訳された言葉は、必ずしも原型を留める必要があるとは限りません。


というところで本題ですが、身体作法の伝授の基本は「身体ごと」です。
教える人と教わる人が同じ場所で体を動かすことが大前提です。
すると言葉で伝える「伝書」は、その形式にまずハンディがある。
それを乗り越えるためのアクロバティックな仕掛けが要求される。

話がぐるぐる回っていますが、簡単に言えば「身体作法は言葉ではない」。
「伝書」は、言葉ではないものを言葉で伝えるという困難を抱えています。
もちろんその困難は、書く人以上に、読む人が背負わねばならない。
書く人と読む人の時代が異なれば、その困難はとてつもなく大きくなる。

話がぐるぐる(略)、もう言いたい事を言いますと…

「抽象(的表現)」がそのアクロバティックな仕掛けの一つでは、と思います。
部分でなく全体を意識させたい時に言葉を用いるとします。
たんに「全体を意識しろ」と言えば、「"部分ごとの意識"の総和」になってしまう。
そんな時に「全体と対応するなにか(≠部分)」が言葉で表現できるとすれば…。

分かりにくい喩えだな…というか喩えですらないな…

そうだ、その「全体と対応するなにか」の例に「意識しにくいなにか」があります。
それは部分かもしれませんが、その部分は意識の仕方がよく分からないのです。
「意識しにくいなにか」を意識しようとして、それが「全体の意識」になりうる。
本来の支点の概念をズラした「(骨のない)腹を支点にする」もそうではないか。

「実際やってみました」の話は次回にて。