human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

"呉越同舟"の互酬性について

最初に書きますが本記事は、ええ、ワケの分らん話です。ご注意を。

 実践の経験のすべてが、またそれと同時にその論理が変化するためには、「互酬循環」の「機械的諸法則」が赴くところとは違った仕方で事態が進行する可能性が存在することで十分である。最も高い蓋然性から絶対的不確実性への移行は、数的隔たりには比例しない質的飛躍を表現する。(…)不確実性を再導入することは、時間をそのリズム・方向・不可逆性ともども再導入することであって、それはモデルの力学に代えて戦略弁証法を立てることである(…)。
「第一部第六章 時間の働き」p.165(P・ブルデュ『実践感覚 1』)

日常の出来事の真っ最中(またはそれを振り返る時)に、ある抽象を連想する。
その抽象的な文章は、ただそれを読むだけでは何も思い浮かばない。
けれど、その抽象と出来事がリンクした瞬間に「抽象的経験」が生まれる。
そのリンクを念頭に再度抽象と取り組み、言語化することでそれは具体化する。

(…)現実に観察されたあるいは潜在的に観察可能な諸実践(名誉に関わる行為、交換行為)の宇宙─(…)─を紙の上に再現させることができる。このようなわけで、観察されたすべての名誉に関わる諸行為を、またそれらだけを、説明するためには、名誉面での平等原則という基本原則が与えられるだけでよい。
(…)
名誉交換は、(…)相手の承認を内に含んでいる点で、(特殊なケースではそれは相手の名誉の平等を認める)、当然の結果返礼、反撃=お返し(リボスト)、対抗贈与、言い返しの可能性を含んでいる。(…)名誉において同等なるものから投げつけられる挑戦のみが受けて立つに値するということは、この互酬性公準の換位命題である。(…)そして反撃は名誉における平等の承認、すなわち挑戦を名誉の行為として、その行為者を名誉ある人物として承認することを含んでいる。基本原則とその換位命題の方は次のことを含意している。すなわち、名誉において自分の同等者たりえない誰かと名誉の交換に入る(挑戦を投げつけたりそれを受けて立ったりして)人は面目を失うのである
同上 p.165-166

抜粋は文化人類学が対象とするような部族の実践の論理に関する記述です。
名誉交換、対抗贈与、挑戦などは恐らく宗教的儀式における行為です。
が、抜粋部を打ち込みながら考えたのは「名誉交換=会話」なのかな、と。
いかなる社会的集団においても、他者との象徴のやりとりは「儀式」です。

つまり僕の会社での日常をこのような枠組みで捉えてみようと思ったのでした。
抜粋もそうですが全く未整理なので、分かりにくさを承知で書きたいことを書きます。

意識・無意識に関わらず、「互酬循環」の公準は集団内で機能する。
つまり実践者と非実践者との「名誉交換」においても「互酬循環」の公準は機能する
実践を意識できない者(=非実践者)は、承認もされず、面目を失うこともない。
非実践者=合理的行為者の明示的論理は、「互酬循環」の公準の暗示性を覆い隠す

実践者の実践の基本は、どのような集団においても変わらないはずだと思います。
すなわち、「互酬循環」の公準の暗示性に常に耳を傾け、その響きを聴き取ること。

実践は、「するかしないか」ではなく、「常に、既に為されている」のです。