human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「和歩」について(承前)

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昨日から新しい歩き方を本格的に始めてから、体に変化が起きれば「歩き方を変えたことと関係がある」と考えることができます。
とはいっても、歩き方以外の全ての生活スタイルを維持したままでなければそのような経過観察における評価は、あくまで可能性にとどまります。
それが身体実験の難しい点ですが、同時に面白いところでもある。面白いところというのは、実験結果に対する評価が確定しないため、どこまでも推論が可能な点です。
それを面白いと捉える心構えを維持するのもまた大変ですが。

話を戻しまして、一日経っての体の調子をみてみると、まず普段は痛くならない箇所(右足の腿の裏)の筋肉が疲労しているような感じがある。
あとは体全体が満遍なく疲れているような気もしますが、まあこれは願望でしょう。


ナンバ歩き」について少し考えたのですが、あれは効率の良い歩き方ではない。
ここでいう効率は、少ないエネルギィ消費で速く歩くといった意味です。
では何がいいのかといえば、前回にも書きましたが全身をバランス良く使う、「全身協調性」が高い動きである点です。
だから、疲れが体の一部分に偏って溜まることがない。
「全身がまとまって動いている」とも前回書きましたが、ナンバ歩きをこのような表現で言い表した時に、西洋的な歩き方は「身体と手足が分裂している」と考えることができます。
身体の部分によってかかる加速度が違うということは、その(加速度変化の)変わり目の部分には強い負担がかかるということです。
上半身と下半身のねじれがそれぞれ逆向きにはたらく動きが歩く動作に伴うのならば、その「強い負担」は腰にかかることになる。
日常的に歩く人が腰痛になるとはあまり聞かないので話はそう単純ではないのでしょうが、前回抜粋した平尾氏の記事の中にある「表層筋と深層筋」も関係してくるのではと思います。
あるいは、普段は感じない身体部位の疲労が蓄積して歳を取ってから発現する、というような…まあそれをいちいち怖がることが安易な(徹底的な?)健康志向に繋がるのでしょうが。


さて、最初に載せた写真の話をしますが、そういえば部屋にデッサン人形が飾ってあったのでした。
これは別に絵を描くためではなく、武道に興味を持ち始めた時に「武道的な文章を読む際の想像の参考になるかな」と思って買っていたものです。
買ってから適当なポーズを決めてずっとそのままにしていましたが、今回の件で「自分のイメージする歩き方のポーズをさせておこう」と思い立ちました。
本棚の上に置いているのですが、部屋でコタツに座る時に真正面に位置していて、毎日何げなく目にすることになります。
つまり歩く間だけでなく、部屋にいる時にもイメージを喚起して感覚を定着させようという思惑です。
うまくいくかどうか分かりませんが…というのも最初に決めたポーズ(本記事の最後に載せた写真です)にも今回と似たような意図を込めたはずですが、果して効果があったのかどうか。
このポーズを決めた時はそんなこと全然考えませんでしたが、今見ると「DFを右手でガードしながら左にパスを出すサッカー選手」に見えなくもない。


それで今回の「ナンバ歩き」のポーズですが、左足と一緒に左腕が振り出された瞬間をイメージしています。
左肩が少し前に出ている点、上半身が少し前傾している点も取り入れました。
あとこれは見た目だけでは分かりにくいですが、「左足と左腕の連動」のイメージも込めています。
これは昨日歩いていて思った中で重要な点です。

「同じ側の腕と足を一緒に振り出す」みたいなイメージで歩くと途端にギクシャクしてしまうことが何度かやってみて分かったので、前回書いたような、腕を振らずに肩を入れる歩き方を最初はやりました。
それに慣れてから腕を振り出した時に、「足につられて、足と同じ側の腕が振り出される」というイメージならわりと自然と動ける気がしました。
このことを上で「左足と左腕の連動」と書いたのですが、「足と腕」を具体的に書きますと「腿と上腕」になります。
ただ手は鷹取なので、上腕といっても腕全体のイメージに近いですが。
というわけでデッサン人形の左腕は「左足に触発されて振り出されている」ように左足の腿より緩い角度にしたのですが…どうでしょうか。


前回に「全身協調性については実験課題」としましたが、昨日の今日で少しだけ考えていたのは、もし「和歩」において全身がバランス良く使われるのだとすれば、「自分がそこを使っていると意識していないような身体の一部分」も動員される、という形態を最初はとるはずです。
普段使わない部分の筋肉を使うと、すぐ疲れたり、そこを守ろうとして「使っている筋肉の周辺の身体部位」が使われたりします。
また、普段使わない部分はあまり疲れたことのない部分でもあり、そこが疲れると「全身がなんとなくだるい」という形で意識されることもあるかもしれません。
つまり全身協調性の把握は、普段偏った身体の使い方をしている身からすればとても難解なはずで、しかも身体運用全体の変化を伴うとすればそれは最初は必ず「不都合」(身体が思った通りに動かない、思ったほど動いていないはずなのに疲労が大きい、など)として顕われるだろうと思うのです。
普段の生活でそれをいきなり吸収できるほどの余裕があるという確信もないので、「三歩進んで二歩下がる」みたいな牛歩戦術が予想されます。(用法が違う)

まあ、時間をかけて、ゆっくり実践して、ゆっくり観察していくことにします。
相手が身体ですからね。

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