human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

実践の論理について(2)-脳と身体の参勤交代-

 客観主義に内在する論理主義は、学問上の構築物が実践の論理の諸原理を把握する犀に必ず原理に性質の変化を蒙らせる、ということを見落とすきらいがある。反省的説明は、実践の継起を表象された継起に変えてしまう
(…)
学者風の問いかけ方が行為者をして、自分自身の実践に対して、科学の視点でもないが行為の視点でもない一視点を採るよう唆かし、自分の実践について自分が提出する説明の中に、実践についての一理論を引っぱり込む。この理論は、観察者の心が傾いてゆく法的・倫理的・文法的な律法主義に先んじてやって来るものだ。自分の実践の理由とその存在理由について問いただされ、自ら問いただすというこの一事からして、行為者は、そうした問いを排除することこそ実践本来のことだという、実践に本質的な事柄を伝達することができない
P・ブルデュ『実践感覚(上)』p.148-149

「実践の継起」は、前回の話でいう「実践の時間」と対応づけられます。
そうするともう一方の「表象された継起」は「線的な(時計の)時間」となる。
反省的説明は前者を後者に変えるのは、原理的にそのような操作だからです。
本書では「まずその自覚を持ってくれ」と表現を変えて繰り返し注意されている。

抜粋後半の下線を読んで、伝統芸能の徒弟制度を連想しました。
師匠は各種の動作について説明せず、見取り稽古や基本動作の反復をさせる。
弟子はひたすら見て、真似て、ある時突然師匠から「おk」が下される。
内に溜めた数々の疑問は問いとして発されぬまま「なーる」と相成る。

徒弟制度は、実践を実践のままに継承するシステムだったのでしょう。

 神話の科学は、権利上、数学の群論から神話のシンタックスを記述する言語を借り受けてよい。ただし、この言語は、自らが便利な翻訳としての姿で自他に現れるのを止めた時、自分で把握を可能にする真理を破壊してしまうということを忘れない(ないし忘れさせたままにしておかない)との条件つきでである。体操は幾何学だと確かに言えるが、体操家が幾何学者だなどと理解しないという条件つきでだ。(…)例えばカビル族の家の内部空間が、それを全体空間に置き直した時には逆の意味を受け取ることが証明されたとすれば、内部・外部の二空間の各々が、互いに他から出発しそれに半回転を施せば得られる、こう言う根拠は確かにある。ただしそれには、実践という根源的な地盤の上で数学がその操作を表現するのに使う言語を、その移動や回転などの用語に、前進や後退をする、後ろ向きになるといった身体運動の実践的意味=方向=感覚(センス)を与えることによって、本国帰還をさせるという条件がつく。
同上 p.153-154

この抜粋部の最初の下線も上で書いた「自覚」の表現の一つです。

長々と引用しましたが、本記事で触れたかったのは最後の「本国帰還」という言葉。
このメタファに触れた瞬間に、僕の中で連想がパーッと広がったのでした。
国に帰るには、まず別の国へ行っているという前提がある。
つまりこの一言でなんらかの行き来、すなわち往復(運動)が表現されている。

実践と言語(論理)の対応から具象と抽象を連想するとは前回も書きました。
僕が常々思っているのは、抽象化は具体化のためにあるということです。
ある出来事を抽象化すれば、それと構造の似た別の出来事に抽象を適用できる。
抽象化は本来「抽象と具象の往復運動」を促進するために行うものだ、と。

専門分化で学問のタコツボ化現象というのは、この往復運動が止った一例です。
抽象化ばかりが無闇に推し進められた結果、具象が「反転」してしまった。
実際に何の役にも立たない学問が、極度の抽象化という形式によって役立つ。
その役立ち方というのは、研究者の予算確保とか保身とかそういったものですが。

話を戻しますが、抜粋最後の「本国」とは、「実践の国」かと思ったのでした。
「実践の国」で生まれ育った若者は、出稼ぎのため「数学の国」に上京(?)する。
お金を稼いで独り立ちし、家庭を築き身を立てた若者は、果して「帰還」するのか?
現代日本の都心と田舎のバランスを思い起こせば、それは自ずと明らかでしょう。

なんだか一瞬、橋本治になった気分を味わいました。メタファ面白い。