human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

非-集中的思考について

(…)思えば私は自分の仕事のやり方の一つのあり方をオーネット・コールマンを聴きながら考えていた。
(…)
 で、オーネット・コールマンだが、彼はミュージシャンとしてのキャリアのごく初期から、非-集中、非-持続、拡散的運動による音楽ということを考えていたみたいなのだ。(…)もっとずっと力が抜けて、仲間と集まって、プーと吹く。おもにアルトサックスだから、ポォーとかトゥォーと表記する方がいいかもしれないが、コルトレーンドルフィーのように”一期一会”的な揺るぎのなさは目指さない。それは美学依存症というものだよ。聴く人の耳を自分だけに引き付けるんじゃなくて、聴いてる人も力が抜けて他の音も聞こえてしまう。だから当然他のことも考える。そういう演奏をやろうじゃないか
「馬のいななきみたいなアドリブ」(保坂和志『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』)

「思考」と書くと、一つの物事について集中して考えるニュアンスがある。
「熟考」とか「沈思黙考」などはなおさらそうだ。
その集中が切れた場合を「思考が拡散する」とネガティブに表現したりする。
保坂氏のいう「非-集中、非-持続、拡散的運動」は通常とは逆の発想である。

「思考に囚われる」という表現もあって、これは余計なことを考えるなという意味。
考えるんじゃなくて感じるんだ、みたいな。(長嶋茂雄だっけ? アムロ・レイ?)
武道的な表現を使えば、これらは「思考に居着く」ことを避けよと言っている。
しかし保坂氏はたぶん「"居着かない思考"もあるよ」と教えてくれているのだ。

とりとめがなくて、話が入り組んでいて、すらすら読めない文章がある。
あるいはストーリに無頓着で、話の筋なんてどうでもいいと言わんばかりの物語。
けれどすらすら読めない理由が、読み手の想像力が逐一刺激されるからだとすれば。
一文ごとに読み手の経験とリンクして「これはあのことか」と無数の脇道が現れる。

そんな文章や物語は、きっと自分を再発見する可能性に満ちているのだ。