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読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

実践の論理について(1)-時が止れば動き出す-

 全体化の特権は、次の二つのことを前提している。まず実践的諸機能の実践的(したがって暗黙の)中性化──特殊ケースにおいては、時間標識の実践上の使用を括弧に入れること──、この中性化は、実践的備給の中断を前提する「理論的な」質問の場面である調査*1の関係がもともと行なうものである。もうひとつは、エクリチュール、およびその他の記録と分析の技術のすべて、つまり理論、方法、図式などがそうである道具、歴史を通じて蓄積され、時間を支払って獲得されたこれらの永遠化の道具の適用──これは時間を要する──である。
「実践の論理 理論理性批判」p.134(ピエール・ブルデュ『実践感覚』)
太字は書中の傍点部、下線は引用者

最初の引用には全体化の特徴が書いてあります。
ひとつは、俯瞰的な視点を(時間を止めることで)得ること。
もうひとつは、時間的蓄積を無時間化した道具を使用すること。
この道具を使用することそのことは、時間を伴う。


実践者は、自分のいる状況を俯瞰することができません。
俯瞰的な視点に立つことができるのは、想像上のことです。
想像上のことであれ、それは実践のうえでとても重要なことでもある。
平尾剛氏の現役時代の試合での経験が好例と思われたのでリンクを張ります*2。)

しかし、俯瞰的な視点に立つだけでは、中性化はできません。
サッカーの試合をスタジアムで見ている観客も、俯瞰を「実践」しています。
中性化とは「実践としての性質を抜く=時間を止める」ということです。
時間の流れがある所では、あらゆる出来事が唯一無二の出来事となる。

そしてまた、全体化したものを実践する時には「時間は動き出す」。
フリーズドライ製法、みたいなものでしょうか。
この「中性化と実践」に、僕は「抽象化と具体化」との対応を見ます。
抽象化も、時間を「仮止め」する。


ここから汲み取れるのは、「時間はいつ止まり、いつ動き出すか」です。
何かの理論やシミュレーションの快感は、時間を止められることにある。
時間を止めてこそ、考えた通りのデータや結果が得られるからです。
そしてその快感は、時間の流れを復活させることを拒むようにも働く。

現実が思い通りにいかないのは、当たり前です。
「現実」は時間が流れていて、「思い」は時間が止まっている。
本来は比べようがないもの同士を比べているのです。
その自覚を失った時に、「現実」と「思い」の関係がこじれ始める。

(…)カレンダーは、通約不可能な持続の島状部分からなった、それぞれ特殊なリズムを備えた、つまりひとがその時間をもって何をするかに応じて、その時に果される行為が時間に附与する機能に応じて急いだり足踏みしたりする時間リズムを備えた実践の時間に代えて、線状の、均質で連続した時間を代置する。儀式や労働といった標点を連続線上に配分することによってカレンダーは、標点を、単なる連続継起の関係が統一する分割点に作り変え、かくして、もはやトポロジックにではなく、計算上で等価な点と点との間隔と対応の問を全く新しく創り出すのである。
同上 p.136

ここには「実践の時間」が書いてあります。
このカレンダーの性質は、つまりは「時計」の性質かと思います。
1秒、1分という等しい幅の基礎単位。
「時計的思考は(実践の)時間を止める」と言えるでしょうか。

時計的思考とは何か。
例えば、労働の時給換算。
余暇の「効率的な過ごし方」というのも、それが高じたものでしょう。
この思考にも「時間を止めることで思い通りになる快感」がある。

実質主義の度が過ぎると形式主義に(無自覚に)反転する、とまとめてみました。

*1:引用者註:この「調査」は、本書の例の大部分を占める「人類学者のフィールドワーク」を指しています。

*2:実はこの記事は今日の昼休みに会社で読んだのでした。浦和レッズと清水エスパルズの「無観客試合」がテーマですが、プロスポーツマンの切り口で爽やかに話が展開されています。