human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

実践の論理について(0)-行きつ戻りつ事始-

 実践が示しうる以上の論理性を実践に求めることを避けるために、また求めるがために余儀なく実践から非首尾一貫性を強奪するとか、不自然な首尾一貫性をむりやり押しつけるとか、こうしたことを避けるためには、実践に、論理学のものとは違う論理を認めなくてはならない
「理論理性批判 実践の論理」p.140(ピエール・ブルデュ『実践感覚(上)』)

実践の論理、というと変に聞こえるかもしれません。
論理なんかにかかずらわないのが実践ではないのか。
論理に頼っていては感覚が鈍ってしまうではないか。
けれど冷静になるとそう思わせるのも論理と分かる。

論理で構築された社会では無意識にも論理が入り込む。
論理を脱するための論理を考えなくてはならなくなる。
実践の論理は、論理が発達したからこそ編み出された。
脳と身体の釣合を身体側に寄せるのが実践の論理です。


抜粋したブルデュの本は、今の僕の興味のドンピシャです。
古い本ですが、「身体性と言葉の関係」を考えるうえでは頗る現代的です。
正直言って訳分からんですが、興味ある内容が書いてあることは分かる。
論理的な繋がりとは別に、一文一文に立ち止まって喚起されるものがある。

たぶん何ヶ月も前から読み始めて、2週に5日は手に取るようにしています。
が、一文ごとに止まるので進みが遅く、一日1ページという日もある。
そんな遅さだから、本書について書くのは読了後にしようと思っていた。
が、いくら遅くなってもいいじゃないか、とつい最近思ったのでした。

(こういう偶然は大事にしたいといつも思っているのですが、
 きっと今同じ周期で読んでいる小説の一場面とリンクしたのだと思います)

 わたしは今まで書いた小説は全部、一番におじいさんにプレゼントしてきた。
「ああ、これがお嬢さまの、小説でございますか」
(…)
 ところがおじいさんは、小説を一ページも読んではくれなかった。
「感想を聞かせてほしいんだけど」
 わたしが言うと、
「とんでもございません。小説というのは、最後まで読んでしまったら、もうそれでおしまいなのでございましょう? そんなもったいないことはできません。こうしていつまでも、手元で大事にしておきたいのでございます」
 そう答えておじいさんは、船長室にある海の神様の祭壇に本を供え、皺だらけの両手を合わせるのだった。
小川洋子『密やかな結晶』

「書きたい時に書く」、でも思い付いたらすぐ書くとは限らない。
日常生活の他の要素との兼ね合わせで、しばらく放って置かれることもある。
その間に念頭から消えてしまったのなら、それはそれでいい。
そしてそれでも残っていたのなら、それは「書かれるのを待っている」のだ。

僕に早く読み終えたいと思わせるのは、未読の本の多さ「だけ」です。
最近は買うペースを落としましたが、読むより早く本が買われている。
こんな生活を続けていると、買った本を全て読むことなど叶わない。
けれど、実はそれも「そのときはそのとき」という感覚を知っているのです。

(例えば、自分の部屋にある本は自分だけのものではない。
 古本屋と日常生活がリンクしていれば、部屋の本棚をそういう目で眺められる)

本書とは長い付き合いになりそうですが、コツコツ読んでいこうと思います。
立ち止まって考え、時々戻って、思い付いたことを自分の言葉にしてみる。
その「行きつ戻りつ」は、単線的な進行から外れることでもあります。
そして「単線的な進行」こそが、言葉の、論理的思考の原理であり限界なのです。