human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

変化のこと(5)-Consciousness is half the battle-

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朝日新聞を今まで長期にわたって読んできました。
実家も朝日だったし、学生の間読まなかったのは1、2回生の頃だけでした。
就職で京都から神奈川に引っ越す時も販売店どうしで引き継いでもらった。
それが、つい3ヶ月前に、ひと月読むのを止めてみようかと思い立ったのでした。

家で食事する時に活字が傍にあってほしい、という意味で新聞は重宝します。
本だと手で持たないとページをめくりにくいし、雑誌も開いて固定しづらい。
内容が未知である、何が自分の興味を引くか分らないという楽しみもある。
ふと止めようと思ったのは、そのプラスを上回るマイナスを感じたからでした。

もともと僕はマスメディアの形式そのものに対して斜に構えています。
内田樹氏のブログを長く、(もちろん新聞より)熱心に読んできたので当然です。
それは記事の情報以外の要素に対してニュートラルになるだけで本質ではない。
と思っていたのですが、まあ要するにその「記事以外の要素」に嫌気が差した。

新聞の各ページの下1/3くらいはどれも広告で埋まっています。
まず本来の記事内容とその下の広告の乖離に耐えられなくなった。
テレビは見ませんが、本来の番組とCMを同時に観るような疲労感と言えばよいか。
それは普通だと流せばよいのですが、まあ、流せない人間になりつつあると。

広告の唐突さはネットのバナー広告と同質ですが、種類が違います。
最近のバナー広告は閲覧履歴ベースドで、不意に内面を見せられる気持ち悪さがある。
一方の新聞広告には個人ではなく、集団としての読み手の内面が顕れている。
その露骨さも辟易するし、自分がその集団に数えられていると自覚しようものなら…


いつの間にか愚痴になっていましたが、まあそういう経緯でいったん止めました。
止めたら止めたで別に構わなくて、朝は読み溜めてた雑誌を読むなどしていました。
が、ひと月後に配達の人に「どうしても…」と言われると、断れませんでした。
「9月の(配達戸数の)カウントさえ越せば」という話で、数ヶ月だけ継続しました。

その継続期間に「朝日を止めたら何を読もうか…」と考えていました。
図書館で閲覧用の新聞を探して、新聞にもいろいろあるのだと知りました。
毎朝来ればいい、内容には拘らず活字が並んでいればいい。
そして朝日を止める理由になった「不快な広告」が無ければいい。

そんなこんなで日本農業新聞なるものを見つけ、週初めから試読を始めました。
ふつうの新聞との広告の違いがまず面白いです。
農業従事者向けなのは当然なのですが、加えてやはりご年配が対象になっている。
ここまで自分の興味とズレていると不快ではなく、距離をおいての興味を見出せる。

農業よりは「(漁業ではなく)農業的な思想」に興味がありますが、さてどうなるか。


最初の写真に戻りますが、農業新聞と一緒に内田氏のインタビュ記事を撮りました。
僕にとってこの時期にこの内容の記事が出たのは一つ因果だなと思いました。
記事の内容はウチダ氏のいつも通りなのですが、インタビュアの応答がすごい。
引導ですかね。

この朝日のインタビュ記事は、ウチダ氏のブログ↓で読めます。

cheechoff - 『カジノについて (内田樹の研究室)』 へのコメント

朝日のインタビュ欄で読みました。そう読む方も悪いですが、これを人と人の生身のやりとりとして読むとかなり不気味です。「メディアの自浄作用」の心地良い表現形態なんて期待してはいけないのでしょうか。

2014/10/24 22:58 にブックマーク