human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

変化のこと(4)-パッシブ朝活-

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を思い出しました。
あれはハルキ小説の中でも特に教訓の多い小説だったな、と。
村上氏が教訓好きなことは村上堂エッセイシリーズで触れられています。
教訓には、普遍に返る作用と変化を起こす作用の両方がある。

隣の部屋の目覚ましで朝起きる、というのは今まで何度もありました。
最初は「どう苦情を言ってやろうか」と考えたりします。
それから「まあ聞こえて起きるのはしょうがない」と思い二度寝するようになる。
そして昨日の今日は「そういう生活習慣に変えてみよう」と思い、起き出す。

僕の目覚ましは7時半に鳴り、隣の部屋の目覚ましは6時半に鳴ります。
昨日の今日、というのは、昨日も6時半に起きて、二度寝をしようとした。
そして後味の悪い夢を見て、「もうそのまま起きちゃえばいいか」と思い付いた。
その方がその日一日を何かしら良く過ごせるなら、それでいいんじゃないか。

それを今日確認してみよう、ということで、今日は6時半に起きました。
朝にブログを書いているのもその影響で、本記事の発端もここにあります。
「何かしら良く」と漠然としていますが、シンセシスの本領はそこにあります。
最近気付きましたが、シンセサイザーの原義はsynthesis(統合)なのですね。


最初の話に戻りますが、今朝起きた時に一つの教訓を思い出したのでした。
「思い通りにならない時に居心地の悪さを感じる時、ストレスに負けている」
という感じだったと思いますが、この教訓は小説の中で主人公が体現しています。
世界を救った主人公が自分の意志を発揮したのは、たった2つのことでした。

その2つ以外はひたすら状況に流され続けたという話ですが、それはさておき。
本記事の「苦情を言う」「二度寝する」「生活を変える」という対応に関係します。
最初は「思い通りにしよう」だったのが、だんだん「流されればいいか」になった。
意志薄弱になった、と見てもいいですが、僕は生活の余裕の違いかな、と思います。

余裕がある、とはハンドルの「あそび」のようなものが大きい、と捉えてもよい。
ちょっとした振動や外的因子(車内に蚊がいるとか)で、コースがぶれない。
あそびが大きいと急に大きく曲がれないのが危険かといえば、そうではない。
そういう状況に陥るのがまず危険であって、つまりスピードの出し過ぎはよくない。


途中で逸れた方の話に戻りますが(忙しいですね)、この変化は「途中」です。
いちおう今日一日の出来をもって「6時半起き」の是非を判断する建前の話でした。
が、もう建前と書いている通り、そんな判断の結果には意味はありません。
評価対象が変化する自分で、評価主体も変化する自分で、さて結果はどうFBされる?

まあ、何かしらの点でフィードバックされるのでしょう、というところでしょうか。