human in book bouquet

司書資格を活かせる仕事を探していきます。

個人から立ち上げる物語について((6))完

思い付きを折角だから書き尽くそうシリーズのラストになります。
テーマがキャパオーバなので大雑把な話でいきます。
物語の質の、時代の変化についてです。

「大きな物語」とは、日本の高度成長期の「一億層中流」とか「工場の黒煙は豊かさの象徴」とか、資源の有限性に無自覚だった時代の物語を指します。
コミュニケーションの伝達ツールがそれほど発達しておらず、マスコミが一方通行だったその時代は、みんなが同じ認識を共有できた。
「できた」というのはある肯定のニュアンスが入っていて、価値判断を引き抜けば「せざるを得なかった」ですが。

生産も消費も拡大の一途でしたから、仕事や生活で小細工をせずとも充実が得られた。
充実や幸福の感覚は、絶対量には直接関係はなく、「右肩上がり」という変化量(比較対象との相対量)がプラスの時にもたらされます。
その比較対象が「ちょっと前の自分(や自分のいた時代)」ならばそうで、「自分以外の人間(=世間)」であれば安心感や肯定感をもたらします。
幸福感も肯定感も似たようなものかもしれませんが、幸福感に油断すれば(油断しなければ?)つきまとう嫉妬は、肯定感とは無縁のものでしょう。
自分が周りと同じであれば、周りから妬まれようがない。
視点を変えれば、優越感は幸福感に付随することはあっても、肯定感とは関係がない。
とはいえ、安直に言えば「周りと大差なければまずまず幸福」といったところですか。

話を戻しまして。
「大きな物語」が失われ(=実用強度をなさなくなり)、個々人が「自分の物語」を持つようになったのが現代です。
これは「持たされている」と言ってもよい。
世間に流布する論理に破綻はつきもので別に現代に限った話でもありませんが、この「自分の物語」の内実は、「みんなが同じように持つべき個性的な物語」です。
この「個性的」がマジックワードで、別に客観的に唯一無二である必要はありません。
本人が自分のことを個性的と思えればそれでいい。
生身の身体としては自分は唯一無二だと誰もが思えて、ではそんな自分がやることも唯一無二で、考えることも唯一無二である。
そうやって、みんなが自意識過剰なままに同じことを考えている。
それで支障がないのは、現代では思想(思考の中身)に価値がないからです。
みんなと同じなら、それでいい(少なくとも悪くはない)。
これは「大きな物語」が機能していた時代と同じ価値観です。
一つの考え方として、「大きな物語」は現代もまだ機能している、と見ることもできそうです。
ただ、それは形骸化しており、中身は空っぽです。
もしくは、中身が個々別々でありながら「(それらはみんな)同じです」という形式を纏っている。
これは「みんな自分のことだけ考えてるんだから別に(僕だって自分のことだけ考えてれば)いいじゃないか」という頽廃でもある。
この頽廃はしかし無気力とは限らず、例えば「え、君は何で自分のこと考えないの?バカなの?」といった気力溢れる頽廃という進化系もあります。

話を戻しまして。
個人が「自分の物語」を持つ、というこの形式はおそらく現代では免れません。
伝達ツールの発達がそれに大きく影響しています。
一個人が大きな力を持った。
ネットツールを駆使して集団を形成したり、会社や国を相手にすることができるようになった。
これは個人の可能性が広がった、と言えますが、「夢が広がった」わけではない。
夢は本来「届かない将来像」です。
実現するかどうか分からないが、実現に向けて頑張れば叶うかもしれない。
しかし、伝達ツールが発達して広がった個人の可能性は「届く将来像」なのです。
未来が、見える。
見えたその未来を実現(=再現)するための力が、現代の個人には与えられる。
ところが、それは「実現する可能性が高い」ことを意味しません。
成功できるか否かとは関係なく、成功した未来像が具体的になった、ということです。
あらゆる人々の人生を情報としてアーカイブに蓄積し閲覧できると、そういうことになります。
そこには「人生の成功例」とその「マニュアル」が無数に並んでいて、今の自分にぴったりな成功例を選ぶことができる。

話を戻しまして。
(どこから逸れたか言わないのは不親切ですが、実は僕も良く分かりません…)
(最初から大雑把ですが、自覚として、ここからさらに大雑把な話となります)
個人が「自分の物語」を持つ、というこの形式はおそらく現代では免れません。
人々の価値観を変えようと思ったとしても、この形式を前提に考える必要があります。
個人が「自分の物語」を持ち、かつ「自分の物語」が他の人々の「自分の物語」と価値観を共有している。
「賢い消費者」というのは、現代で機能する「自分(達)の物語」の一つでしょう。
生産するために消費しなければならない、と国やマスメディアが思えばそうなります。
けれど、経済成長は未来永劫続くものではない。
その徴候は、つまり日本が縮小社会になりつつある徴候はいくつかあります。
人口の減少、少子高齢化、消費活動の減退、…。
消費者としての物語が破綻する(つまり論理の破綻に留まらず、実質まで破綻する)時に、「自分の物語」は、個人から新たに立ち上がることになります。
脳はある程度(というかかなり)破綻していても融通が利きますが、身体は自ずと限界があります。
身体が脳の破綻に付合えなくなった時、脳は自分も身体であることを思い出すのです。

人々が率先して贈与を行い、経済活動(「経済」の定義も変わるのでしょう)が贈与からスタートする「贈与経済」。
地域の小集団の自活と、小集団同士をつなぐ小商いによって身の丈の循環が維持される「花見酒+α経済」。
資源の有限性、あるいは個の影響力の有限性を身に引き受けることで、生身の時間が動き出すのだと思います。
そして、「憧れの大人」の背中を見て大人になりたいと思うのと同じく、「憧れの社会」を垣間見せる思想に触れることでその実現に向かうことができるのだと思います。


さて、息切れ弾切れ虫の息での幕切れとなります。
次からはいつも通りの投稿に戻る予定です。
ここまで拙文をお読み頂いた方へ、ほんとにお疲れさまでした。
こんな未来の自分が読む気も失せるような文章を…おっと。
まあ、こういうことをやれば「もっとまともな文章を書きたい!」と、
思うことなきにしもありをりはべりの南京玉すだれ

「エー、宴、高輪プリンスホテルではございますが、はなはだ千円札ながら、乾杯の温度計をはからせていただきます」
(…)
「えー、結婚生活には、三つのフクロがあるといわれております。一つは、あー、池袋。そして二つに沼袋、そうして、えー、三つが、東池袋……」*1

*1:「虚心坦懐、熟慮する。」(南伸坊『笑う茶碗』)