human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「私は軋轢を墓碑銘としよう」

風邪ひいてました。が、戻る前にまた寄り道です。

 私はこれまでエッセイで「現代という時代を生きづらいと感じる人の方が、この時代にすっかり馴染んで楽しくやっている人よりもずっとちゃんと生きている。」とか「すっかり馴染んで楽しくやっている楽しさより、生きづらいと感じている方がずっと充実している。」というようなことを何度も書いた。
 どう進もうが私にはいつも軋轢があるのではないか。(…)
 世間の人は単純に、小説家は作品が残るとか名が残るとか考えているが、そんなものはすべて過去のものであり、書きつづけると感じている気持ちだけが信じられる。その源泉が私にとって軋轢だったと思うのだ
「私は軋轢を墓碑銘としよう」(保坂和志『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』)

いや、正確には「風邪だと思っていたが多分違う調子の悪さ」でしょうか。
風邪そのものは日曜夜に引き、月曜夜に治りました。
けれど本調子でないというか「ものを考える元気」が今週ずっと不足していた。
仕事は火曜から普通にできていて、では仕事で頭使ってないのかと言われそうですが。

それが、今日の定時後にちょっと気に障ることがあって、なぜか元気になりました。
この元気というのが上に書いた通りで、「お、何か書きたいぞ」という意欲ですね。
それにつられて、不思議なことに通常の意味での体調も上向きになってきました。
それで前に読んだ保坂氏の本のことを思い出し、「おおなるほど」と思った次第です。

保坂氏がストイックかどうかは微妙ですが、「逆境に強い」のだとは思います。
ハシモト氏はストイックを自称していますが、僕が両氏とも好きなのはこの点です。
生きていく中に障害や不都合が多々あったからこそ、乗り越えるために思考を磨いた。
境遇の強制を「行為の強制」ととらず、自分のやり方で道を切り開いてきたのです。

軋轢を「くるならこい」と構える姿勢は、それを望むマゾヒストとは異なるのです。

 七〇年代前半、それを聴いた者たちの心を打った Confusion will be my epitaph. という、キング・クリムゾンの歌詞があるが、さしずめ私は
 Friction will be my epitaph. 「私は軋轢を墓碑銘としよう」
だ。
同上(改行は引用者)