human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

垂直離陸について

思い付いてしまったので連投の間にカフェブレイク。
というほどオシャレなテーマではありませんが。
前に書いた一本歯でステップを踏む話の一例です。
毎日無秩序に踏んでいるのですが、先ほど一部の言語化を閃きました。

タイトルは、たしか甲野善紀氏の武道動画で聞いた記憶があります。
体が地面から浮いた一瞬は、全身を「鰯の群れ」のように動かせる。
地面に立っている間は、立姿勢を維持するために脚に○○が割かれてしまう。
○○は意識、ではなくて…細胞の緊張かな。局所集中と分散は同時には起こらない。

僕が一本歯で踊ったり刀の素振りをする入口にこの「垂直離陸」がありました。
体が浮く一瞬、片足に寄った重心がもう片足に移る瞬間は、全身が軽くなる。
そうなると言われてそうかと思い、そうしているうちにそうだと思えてくる。
この一言の「実感の着地点」はなくて、日々身体の動きについて示唆が得られます。

たとえば軸足の変更時の浮遊感は、一本歯を履きながらやると顕著になります。
通常軸足が移ったという判断は、両足にかかる力の配分の変化ではない気がします。
そうではなく、軸足による体全体のバランスの取り具合の変化に因る。
そうであれば、微小な動きでもバランスが大きく変わる一本歯での感覚も納得できる。

ボクサーやムエタイ選手は試合時に、軸足の交代を小刻みに繰り返しています。
(今思えば初めて見たのはSFC餓狼伝説』のジョー東でした。懐かしい…)
あれも多分「垂直離陸」をやっているのだと思います。
自分もそれをさっき真似事でやってみて、ひとつ思い付いたというわけです。

何かといえば、「軸足の交代」の周波数をどんどん上げていけばどうなるのかな、と。
軸足が、たとえば左から右に移る間の、どちらでもない瞬間を通常「離陸」と考える。
けれど、その離陸に伴う浮遊感覚は、離陸時間ぴったりにしか起こらないのだろうか。
根拠はありませんが、浮遊感覚は離陸の前後にも延長しないのかなとふと思いました。

もしそうだとすれば、周波数をある一定以上まで上げれば面白いことが起きます。
つまり、浮遊感覚が持続的に起こるのです。
外から見れば浮いてはいませんが、本人はまさに浮いているように動ける。
これを「イワシ状態」と命名しておきましょう。

そういえば、脚をバタつかせて浮いている人間を古いアニメでよく見かけましたね。
「おそ松くん」とか…古いですね。
当時は微塵も考えませんでしたが、おそ松は「お粗末」なのですね。
ではとど松は…「とどのつまり」? お粗末なアナグラムですね。違いますね。

ジュウシ松とかいたような…八つ子でしたっけ? まあ調べませんが。お粗末。