human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

非消費者的に生きる(3−2)

さて、戻れる気があまりしませんが、ウチダ氏の話の続きです。

氏は「月刊ウチダ」と言われる(自称ですかね)ほど大量に本を執筆しています。
その本の何割かをコンピレーション本と呼んでいます。
「コンピ本」とは、氏が習慣として書いているブログから寄せ集めて形を整えた本のことで、そんな芸当ができるほどブログの内容は充実しています。
が、ブログはもちろん無料でネット上に公開されているので、コンピ本はわざわざ買わなくてもブログを読めば内容が全て分かることになります(もちろん編集者の考えたテーマに沿って記事が集められ、氏が体裁を整えたり加筆したりしていて、付加価値は十分についているといえます)。
それでもコンピ本をわざわざお金を払って紙媒体で買う人がいる。
氏は著作権法はクリエイティビティ(創作意欲、とかその出来でしょうか)にあまり貢献していない、金に関係なく書きたいから書くのだ(氏は「読むのに面白い本がなくなったから自分で書くようになった」とか「分からない(けど面白そうな)ことがあるから、書いていくうちに分かってくる」(これは橋本治氏の『「分からない」という方法』のスタンスでもあります)とかふつうの感覚ではないことを言いますが、氏のブログをずっと読んでいると「そうなのだなあ」と実感できるところがあります)、という立場で、氏が自分の思考をふんだんにブログに披瀝する行為がそのまま著作権フリーを体現していて、そして読み手が氏のブログに創作性を感じられたならば(氏は孔子の「述べて作らず」を範として…とまで言っていいかは分かりませんが、自分の書き物は自分オリジナルではないことをたびたび強調します。どんな言葉もいつか誰かが言った言葉だ、というのも一つの真実ではありますが、昔の時代に言われた言葉を今の時代に合うように翻訳する、現代の人々に届くような表現やメタファを用いる技術にも価値はある、ということです。『日本辺境論』が好例ですが、確かあの本ではまえがきで「この本は誰それの論考が元ネタで…」みたいなことが書いてあったはずです。それでいてあれだけ売れて、新書大賞をもらったりもしているのです)内発的なクリエイティビティの質の高さについて氏自らが実証していることが理解できるようにもなっています。

後で読み返すのがイヤになるくらい長い一文を平気で書いてしまう(そして本題から逸れて戻ってこれなくてもケロリとしている)から「4行ルール」などを設けて矯正しようとしていたのですが、それはさておき…
上記に関連するウチダ氏情報をもう一つ書いておくと(テーマが変わっているような…)、氏は「オーバーアチーブ」の重要性をブログで何度も(たぶん二桁はいっている)書いています。組織論ですが、成員を一律に数値的に評価する、無駄やサボタージュを徹底的に排除するといった管理をすると、給料以下の働きをする人は確かに減らせるが、給料以上に働く人もいなくなってしまう。アンダーアチーブの損失は一人あたま最大でも一人分ですが、オーバーアチーブがなされないことは、一人当たりでも場合によっては何百人分の働きをドブに捨てるということにもなる。寝食を忘れてオーバーアチーブをする(したがる)人間の自由を維持するためには、定時内でも平気で内職をするような人間がいることも許容しなければならない。企業風土に余裕あってこそクリエイティビティも賦活される、というような話だったと思いますが、この組織論は個人の活動にもいくらか当てはまります。自分の活動に対して報償(対価)が得られるとして、その活動の成果と対価が厳密に相関している(低次関数的に決まっている)ような場合を考えると、まあ単純に言って頑張れば頑張るほどお金がもらえるわけです。そして、「これだけ頑張ればこれだけのお金がもらえる」ということが、はっきりと分かっていると。このような状況でクリエイティビティが発揮されるかといえば、そんなことはない。自分の活動が関数的に金額換算できるということは、その活動をする前から評価が決まっているということです。それは労働であって創作ではない。未知なるものの探求、結果がどう出るか分からない活動にあらかじめ対価を決められるはずはないのです。…もちろん以上は原理的な話ですが、「原理と実際は違う」のが正しいとしても、それは原理を無視して実際にかまける理由にはなりません。原理を理解して、なんとか実際をそれに擦り合わせる努力をしてこそ、実際の中で原理が活きるのです。

さて、何の話を…

そうだ、出版業界の話でした。いや、新本を買わないでどうして平気でいられるか、だったかな。
上の話とつなげると、無償(あるいは安値)で本を手に入れ、自分の好きな本を見つけ、「本に目覚め」れば、新本を定価で買ってちびちび出版業界に貢献するのとは規模の違う、「本の文化への貢献」を(やりたいから)するようになる、こともあり得るというようなことが言いたかったはずです。
もちろん、ちびちびなんて言いましたが新本を買うことは立派な貢献だし、誰も本を買わなくなれば新刊が読めなくなって悲しいのも事実です(昔に出た本で十分だ、という話もあるにはありますが…)。
しかし、出版業界や、本の文化に対する貢献の形は一つではなくいろいろあり、「自分はこれだ」と思うような形を見つけてそれを自分なりに発展させていくことが、「効果の未知な(=クリエイティブかもしれない)貢献」になるということですね。
「未来が決まっている文化」なんて廃れるに決まっているわけで、まあ多様性ということなんですが、「どう広がるか分からない多様性」でしょうか。

生物種の進化は集団の辺縁で起こる、という話もあります。


なかなか進みませんね。
ハシモト氏の話を次にして、あと後から思い付いたんですが例の「払拭」には森博嗣氏も絡んでいるような気がするので、そこまで書ければいいですね。
はい、次は(3−3)です。