human in book bouquet

司書資格を活かせる仕事を探していきます。

非消費者的に生きる(3−1)

リストを順番に進めることにしましょう。
ひとことでいえば「本は誰のものか」といった話です。


本は、新本(新品)でも古本でも、その本質的な価値は変わりません。
潔癖性の人や書き込みを嫌う人でなければ、同じ本が新本と古本の両方で手に入れる可能性があれば、値段の安さから後者を選びます。

僕は京都在住時に古本屋巡りを修論そっちのけで始めて、それが日々の活動範囲によりBookOff三条店に限定され、以後今までを積算すれば98〜99%くらいの割合で古本を買っているというような遍歴を持っています。
もちろん本の状態は選びますし(鉛筆の線引きは自分もやるから許せるとして、ボールペンや蛍光ペンになってくるとその量が多ければ許容できない。あるいは紙焼けなどの経年劣化はほとんど気にしないけど表紙やページ側面に液体をこぼした跡があるとまずNGとか。たまにネットで注文する時は「良品」と書いてあってもその通りとは限らないので何が来ても構わないと思う、というか「自分で選んだのではないからしょうがない」と思う)、読みたい本が古本としていつも手に入るはずはないので、新本で買う動機はないことはない。
けれどそこは習慣で、古本ばかり買っているうちに「今どうしても読みたい本」という概念がなくなり(というか古本屋で本を見つけてから「それが今まさに自分が読みたい本だった」と気付く、という自家発電なのかポジティブフィードバックな経験を何度かすると、その「今どうしても読みたい本」の定義がこちらに変わってくると言えば真実に近い)、新本を買おうとすると足が重くなる(長時間の電車移動で手持ちの本を忘れた時にやむなく買う時が年に一度あるかないかくらいはある)ところからして「古本依存」は身体化されるに至っている。

そんな僕には「古本で買ったり図書館で借りたりして新本で買わない人は出版業界に貢献していない、この低迷期に出版社が潰れて自分の好きな本が買えなくなってもいいのか」みたいな話を読むと、最初はグサリときました。
いつも本を読んで楽しませてもらっているのだから、本の文化が廃れないように新本を買って業界を後押しせねばならんのだろうなあ、と。
そう思いながらも上記のような古本依存習慣は既にできあがっていたので、なんとなく後ろめたさを感じながらBookOffに通っていた時期もありました。
けれど、今はそのような後ろめたさはありません。
少し考えれば「不況なんだから個人がもっと消費して経済を活性化しなければ」と同じ論型で、これは元々お金を使いたい人の背中を押す効果はあっても、冷静に考えればまあ胡散臭い話です。
いくつかのことが問われぬままに論理の前提になっていて、そこに目が向かなければ従わない自分が悪い事をしているように思えてしまう仕組みになっている。
これはまた別の話で、実は中心内容でもないのでおいておきます。


上に書いた「新本を買わない後ろめたさ」を払拭してくれた人が二人います。
内田樹氏と橋本治氏です。

以下は自分が氏らの文章を読んで納得した形を文章化しているので、氏らが直接そう述べていたことは保証しません。と、改めて問うまでもなく引用でなければ全部そうなのですが。


人は誰しも最初は本を無償で手にします。小さい頃、家の本棚にあった絵本や子ども向けの本。小学校や中学校の学級文庫。本を読むきっかけは、自分でお金を払って本を買う以前にあります。子どもに限らず、「本に目覚める」年齢はいくつでもありえます。(僕は大学3年の頃とはっきり記憶しています。高校時は読書感想文用にしか読まず、国語が嫌いで理系に進んだような人間でした。今となっては受験科目としての国語と「自分を賭ける読書」は何ら関係ない、と分かるのですが)古本屋や図書館はそのような「人が本に目覚める」機会を増やすものです。値段が安いこと、あるいは無料であることは、それが多くの人の手に渡る機会をつくる。本の著者や出版業界の人など、本に携わる人々はみな、そのような無償で本を手にする機会に恵まれたからこそ今その仕事ができている。著者や出版社の人が古本屋や図書館という仕組みを憎むということは、自分の生い立ちを否定することを意味する。
(こう書いて、養老孟司氏がいくつかの著書で書いていた話を思い出す。僕はそれを何度も読んだ記憶があって、でも読むたびに「なるほど…」と唸ってしまうほど、日常の感覚からは抜け落ちてしまう認識をもたらす話です。
苦学の末に立身出世を遂げた人の中には、生活に苦しむ学生を援助する基金をつくる人がいる。その心意気自体は非常に尊い。学生が生活に追われて学業に励めないのは可哀想だ、身近な心配事を解消して勉学に集中できる環境を整えてあげたい。その気持ちは分かる。分かるのだが、何かが変だ。養老氏は新聞記事(かテレビ番組か忘れましたが)で見て開口一番「どうしてそんなことをするんだ!」と言い、奥さんにたしなめられたそうです。そのこころは…要は、その立身出世の人は「自分の過去を否定している」ということです。自分は生活に苦労したが、勉強に励んでなんとかものになった。けれど、生活の苦労がなければもっと沢山の人が勉強に時間を割けるに違いない。この素朴な認識に抜け落ちているのは「生活の苦労が学問の成功に資する可能性」です。道徳や同情心は脇においてクールに考えれば、生活の苦労が逆境となって学問に邁進することは十分にあり得ます。ただ、「苦学すれば成功するからもっと生活に苦しめ」なんて手放しに言えるはずがない。それがなぜ言えないかといえば、善意や道徳に反するからです。もっと直接にいえば、その発言者の世間体に影響するからです(とまで養老氏は書いていなかったと思いますが。そしてこの後はたぶん自分の思考です)。このような「善意の反転(ネガティブフィードバック)」は社会の変化(生活水準とか技術革新とか)が激しい時代の世代間(上の世代から下の世代へ)で、当たり前に起こっているように思います。自分の子どもには自分が経験した苦労をさせたくない。これは親のみなが「子どもには自分のようになって欲しくはない」と思って言うわけではないはずです(学歴コンプレックス、という話もありますが)。親たる自分の生活はまあまあ良いが、子どもに苦労させなければ、自分よりもいい暮らしができるだろう(そしてそうなれば子どもが家庭を持ってからも自分を世話してくれるだろう)という「現実的な認識」もあるはずです。その「現実」が、その親自身の現在の認識しか反映していない非現実であればこそ、親の善意は盛大に空回りし、場合によっては反転するというわけです)


と、ウチダ氏の話の途中で養老氏の話に「盛大に」逸れて、戻ろうと思うのですが疲れたのでここまで。
次回は(3−2)ですね。