human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

音のある孤独について

ボーカロイドは孤独と相性が良いと思います。

ひとつ、内省的な性質があります。
内に深く潜り込んで聴ける、あるいは聴くことで深く沈む。
前にも書きましたが、電子声音は思考をあまり乱さないのです。
僕がそういう曲を好んで聴くだけかもしれませんが。

 僕は孤独を手段ととらえています。
 いくつかの選択肢から孤独を選びとったわけではありません。
 自分のやりたいこと、ありたい状態を思った時、孤独がついてきた。
 孤独が解消されるとボーカロイドとの付き合い方が変わる気がしています。

 単純に、全く聴かなくなるかもしれない。
 あるいは誰かと一緒に、楽しく聴いているかもしれない。
 と書いて、後者はどうも想像しにくい。
 誰かとこの趣味を共有するという絵が浮かばないのです。

 ボーカロイドの紹介に、自分の趣向を公開するという面はあります。
 けれど紹介を通じて、好きになってもらいたいという気もあります。
 ただ、大勢の人に対してそうか、と言われればよく分かりません。
 ネット上での「グラスルーツ」に、ふと考えが及びました。

 集団には、個人が自律的に動ける人数の上限があるといいます。
 それを超えると、「集団を維持するためだけの人間」が必要となる。
 草の根活動の肝は、その上限を超えない所にあるのではないか。
 もちろん、それは何かを達成するための活動ではありませんが。

ネットは、遠く離れた個人間が繫がれるツールです。
その創成期から、送受信できる情報量は増え続けています。
情報量が増えるほど、やりとりする個人に想像力は必要とされなくなる。
そして情報量が増えるほど、個人は「のっぺり」してきます。

想像力のない人間は、孤独に耐えられません。
あるいは、想像を抑圧されたくない人間は自然と孤独に向かう。
社会に余裕がなくなるほど、この命題の対偶の逆が真(同一)に近づく。
…何を言っているのでしょうか?

繋がらずに相手を想うことを、不毛だとは思いたくありません。

今日の一曲

Imaginary phantom
曲:ぷろーふとん
絵:なついろ
声:巡音ルカ