human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

縁について

行動に後から理由が付くのは、時に面白いものです。
例えば、気分で始めた習慣が、身体が欲していたからだと後で分かる。
それは「確かにあの時は気分で始めたのだなあ」と分かるということです。
後付けの論理は、身体から聴いた脳が探して見つけた言葉かもしれない。

昨日へんなことを書いて、その中に「何かを得ると何かを失う」と書いた。
すると今日読んだ『世界の〜ランド』(村上春樹)に同じ言葉が出てきた。
「世界の終わり」の章で、「憎しみのない所には愛もない」というような。
こういうシンクロニシティも縁で、しかし書きたいのはこれと逆の話です。

いや逆といっても含んでいるというか、「A∩B」の部分のような話です。
縁を大事にするというと、きっかけを作る方に目が行きがちです。
しかし、ある縁を大事にするとは、別の縁を切ることでもある。
「縁切り寺」という物騒なHNの人がいましたが、今「なるほどなあ」と思う。

自分の話になりますが、携帯電話の電源を普段は切っています。
金曜の夜に電源を入れてメールを確認して、またすぐ切ります。
その習慣が根付いてからは、週一回の確認もたまに忘れます。
そのような習慣を、今年が明けた頃に始めました。

表向きの理由は大したものでなく、そうしなければならない理由でもなかった。
なかったのですが、「まあ、それでもいいか」と背中を押す何かがあった。
「繋がっている安心」を一度得ると、繋がりが切れた瞬間に不安に苛まれる。
はずなのですが、テレビと同じで、いざ観なくなってみればそれが普通になる。

後付けの理由というのがこれで、つまり自分は縁を大事にしていたのです。
機縁に素直に、偶然に優しく、と言葉で書きながら「縁切り」の自覚はなかった。
その自覚がない間はよく分からない後ろめたさがあって、このことを書けなかった。
それが昨日の今日で気付く段取りがつき、さっき林檎を剥きながら気付き、すとん。

というわけで今さらですが以下は知人の方々への私信です。
電話は繋がりませんので何かあればメールでお願いします。
そして携帯電話よりもPCのメールの方が応答が速いです。
Gメールの方ですが、少なくとも2日に一度は見ています。

数の問題ではなく、縁を切れば質が変わって別の縁が生まれるということです。


関西人なら「機縁は消えん!」というオチをつけるところでしょうか。