human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

色気の起源について

ハシモト本シリーズ前回と同じ章からの抜粋です。

 たとえば、百姓がいくら米を作っても悪代官がみんな年貢として持って行ってしまう、だからといって、百姓が米を作るのをやめるわけにはいかない。年貢として持ってかれても平気でいられる量の米を生産しちゃうというのが「前向きの百姓の姿勢」だったりするわけで、そうなると必要になるのは新田開発──つまり隠田(かくしだ)の確保ということになる。
 悪代官の目につかないような場所をこっそりと開墾して田を開き、そこでの収穫をごまかして自分達を豊かにする目的に充てる。色気が抑圧からの産物だというのは、この隠田の時代のもので、今や悪代官も徳川幕府も存在しない、農民は税法的には優遇されていて、作った米はいくらでも国家が高く買ってくれてということをやっているうちに米が余って、減反政策というのがやって来た。隠田を開くどころの騒ぎじゃない、「田んぼを減らせ」の時代がやって来た。
「色気なんかなくてもいい」というのはこういう時代の思想だけれども、(…)
「色気がない!<表>」(橋本治『絶滅女類図鑑』)

何をいきなり、な話ですが「そうなんだ!」と思って読めばすごい話です。
どのような仮説も、鵜呑みにして得られる知見があればそれだけの価値がある。
「本当かどうか」という言葉を使うなら、それは「効果」をもって判断できる。
ところで、この文章を読むと「色気」を別の言葉で言い換えられそうです。

「度胸」とか、「痩せ我慢」といった言葉が思い浮かびます。
後者は夏目漱石の「痩せ我慢の考」のそれで、確か加藤典洋氏が論考を書いていた。
自分の言葉にするには高度な内容だったので(いずれ挑戦します)掘り下げません。
前者について、少し補足してみます。 細く補足、なんつって…


「勇気」でもいいですが、もちろんハッタリをかますことではありません。
(しかし勇気とは音通り有機的だけど、「無機的な勇気」って不気味ですね)
隠田の存在を隠すためには、ハッタリをかます、つまり虚勢を張るわけではない。
きっとその百姓は、隠田が悪代官にバレたら、すっと差し出すと思うのです。


悪法も法なり」という言葉には、内容に関わらずどのような法においても、
その成立過程、その根拠は尊重すべしという含意があります(たぶん)。
ここでの法を、解釈を広げて、あらゆる秩序を指すといってもいい。
「度胸」とは、自分を成立させている秩序を「前提として認める」ことです。

権力に唯々諾々と従うわけではない。
けれど、義憤に燃えて一揆に身を投じるわけでもない。
現況を把握し「自分がこれをして、バレればこうなる」というルールにも従う。
そのうえで、表に裏に、縦横無尽に駆け巡る。

「結果を糧に過程を追い続ける意志」とも繋がっているように思います。

 豊かで実りある農村の消滅と、色気のない女の増大は、なんかかなりの相似形を描いているような気ってすんだよなァ。
 自分が百姓と並べられただけで怒ったり、「なにこれ?」って頭をひねるのが、色気のないことを自覚出来ない女の限界だとは思うけども、「そういうこともあるかもしんない……」という譲歩能力が、実は知性なるものを豊かにするんだと思うんだけどね
同上