human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「ありもの」について

現実に対するわれわれの象徴の関係は、常に装置や装着物で媒介されてきたのであり、その手始めには、いわば多様な機能をもったわれわれの身体という道具があった。マルセル・モースは『身体の技術』において、「われわれは道具がある場合以外、技術が存在するとは考えないという基本的な過ちを犯してきた」と述べている。この人類学者は(それに続く歴史学者以上に)、「身体は人間の最初の、そして最も自然な道具である」こと、より正確には、成人において「自然である方法」は存在しないことを示した。
「第四章 二 メディオエシックスのために」(レジス・ドブレ『メディオロジー宣言』)

ブリコルールの心得は「ありものでなんとかする」です。
ある問題を解決するために、手持ちの道具でやりくりする。
木になった柿を突つく棒は、道具のなかでも原始的なものです。
けれど棒を持つ手も、そもそも道具なのだという話です。

使い方があり、練習すれば熟達する、あるいは新たな使い方を発見する。
棒と手の違いは「最初からあるかどうか」で、それは道具たる要件と関係がない。
そう考えた時、手や足などの身体は「ありものの中のありもの」です。
そしてブリコルールの「なんとかする」とは、要するに工夫のことなのです。

より便利な道具を発明することは、元あった道具の工夫ではない。
つまりブリコルールの究極は(一般的な意味での)「道具」を持たないことになる。
この話は現代生活の維持の観点を離れないと想像できない。
恒常的な進歩(利便性の向上)は、「ありもの感覚」を根底から否定します。

「ありものでなんとかする」限り、技術は進歩発展しないからです。
一方で、ブリコラージュとは状況の変化に「自身の変化」で対応する姿勢です。
これとの対比で、技術の進歩は個人の不変を前提とすることが分かる。
そして「若者の時代」においては、幼児も老人も不変を求められる。

本来、状況の変化と「自身の変化」とは、見分けが付かないはずのものです。

文化の伝達作用による技術的産物(あるいはその逆)としての人間の身体は、われわれがもつ複合機械の最初のものであり、その生きた媒介作用においては、人工物と自然という、西欧の二分法によって分離されている秩序が交錯するのである。それらは交錯しながら互いに変質していく。関係づけられることによって、結びついたそれぞれの末端は変形を被るからである
同上