human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

音感と感受性について

音感が鋭い人は、繊細な人であるようなイメージがあります。
ピッチの微妙な変化に気付ける、外れた音につられない。
音に対して繊細だと、感覚全般においても繊細である。
と言い切ると「本当だろうか?」と思うが、どこまで本当だろう?

「雨音が不協和音だから雨の日は嫌い」と言われたことがあります。
自称絶対音感の人に、です(あるいは僕の兄だったかもしれない)。
どんな音も正しいピッチと比較せずにいられないのは大変そうではある。
詳しく知りませんが、絶対音感であれ、比較せずして正誤もないと思っています。

脱線したので戻りますが、声のピッチはある程度感情を反映します。
落ち着いていれば低音で話すし、興奮していれば自ずとトーンが上がります。
もちろん、普段のその人の会話における声のピッチを基準にしての話です。
見た目はふつうでも、わずかに声が上ずると、その人は緊張していると感じる。

この観点では、音感が鋭いほど、声のピッチから相手の調子が見抜けると言える。
あるいは、歌を聴いていて、歌い手が込めた情感に気付くことができる。
ただ、ふと思ったのは絶対音感の「ピッチずれの不快感」が邪魔しないのか、と。
不快感は一般的に、感受性の感度を落とすからです。

ピッチのずれ方と相手の状態の相関をつける技術には長けるのかもしれません。
自分が不快であろうが、相手の声が何Hz低いならちょっと怒り気味とか判断できる。
するとそれは、判断が精緻であっても「関数」を媒介した判断のように思える。
絶対音感の感覚の繊細さの意味はもしや「自分の内のセンサーに忠実」なのか、とか。


僕自身は相対音感ならあります。
音が二つ以上与えられて、それが協和音か不協和音かは大体分かる。
いちおう自分の中に「ド」の音はあって、音源がなくとも音階は再現できる。
ただ、その「ド」は気分でピッチがばらつくし、声に出さずに他の音と比較できない。

不協和音が鳴ると、元の構成音よりも大きく、波長が複雑な音が聴こえてきます。
音が均一に聴こえず「ぐおんぐおん」と鳴るのが不快に思える、のだと思います。
が、不協和音のすべてが不快なわけではありません。
というより、不快さの「訴えかけ方」によるのだと思います。


ふと絶対音感のことを考えてみようと思ったのは、下の歌を聴いていた時です。
たぶんいくらかピッチはずれていて(低音が不安定?)、でも不快ではない。
一般に、歌について言えば、音の合い方、ズレ方のそれぞれに来歴があります。
単純に言えば、気に障る合い方や、心地よいズレ方がある。

 例えば僕がカラオケで歌うと「気に障る合い方」で歌うことになります。
 声域が狭いのに無理をしてピッチを合わせて歌おうとする。
 高音だと喉がきつく締まって芯のない細い声になってしまう。
 ある程度ピッチの正確さを犠牲にしても、のびのびと歌う方が良いかもしれない。

その「来歴」が歌の雰囲気や伴奏とマッチすれば、心地よく聴こえるのだと思います。
例えば、僕の印象ではこの曲にはわりと「無機質な歌い方」が合う。
無闇に情感を込めるでなく、けれど抑えた中から「漏れ出る」ものがある。
そして脱力ではないある種の力の抜き方が、低音のピッチの揺れとして表れる。

ボーカロイドもそうですが、僕は想像の余地のある歌(歌い手)を好んで聴きます。

今日の一曲

ストロボラスト(歌ってみた)
曲:ぽわぽわP(原曲:http://www.nicovideo.jp/watch/nm13359285
絵:まり
歌:sea-no