human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

旅と「移動」について

 川の上を、プカプカと壊れた下駄が流れてくる。それが自分にぶつかる。自分もなんとなく下駄の方に引かれる。でも自分には重心がある。いつしか下駄は自分を離れてどんどん下流へと流れていく。自分はまた元の位置に戻る。そういう感じだ。影響は受けるのだけど、自分もいっしょには流れない。外から来たものが去っていく。(…)あらゆる刺激に反応しながら、でもそこにとどまらない……って事ならこんな素晴らしい生き方ってないなあって思えた。そんな風になれたらいいなあ、って初めて思えた。反応するけどとどまらない。影響されるけど流されない。自分に戻る。
「できればムカつかずに生きたい」(田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』)

旅に出ると、劇的な出会いを期待することがあります。
今まで会ったこともない、自分の価値観を根底から覆すような人。
旅に出て良かった、日常でこんな人に出会うことはできない。
旅人がそのような出会いをし、それから、どうするか?

と、いうような想像は、その出会いの最中の旅人でなければ分からない。
旅人が帰ってきて、ある出会いを、そのように振り返ることはある。
あるいは彼は出会った「そこ」に住み着き、同じように思うこともある。
ただ、後者でその思いが続く間は、旅は終わっていないように思う。


抜粋した文章を読んで、旅の中での出会いを想像してみたくなりました。
良い出会い、けれど未練も後腐れもなく清々しく互いに別れることができる出会い。
一方で、何かを求める旅で「求めるもの」に会った場合、それに執着することもある。
もちろんそういうこともあって、でもそれは今考える「良い出会い」ではない。

民宿を営む主人にとって、その生活はある部分で「旅そのもの」かもしれません。
宿に泊まりに来る人の多くとは一期一会、その場限りの関係を宿命付けられています。
主人は、上に書いた「良い出会い」における、別れ方の玄人なのではと思えます。
そして宿泊客は、主人との良い別れ方を通じて「良い出会い」があったことに気付く。

宿屋の主人のことは、旅は場所の移動が必ずしも前提ではない一つの例に思える。
読書を旅に喩える想像も、これに通じます。
あるいは、旅の本質が「場所を移動する感覚」だと考えてもよい。
同じ場所にいるまま、本人の内側が変化し、今までと違う場所に今いると感じること。

けれどそれは決して、「実際に」場所を移動したいと思わないことではない。

 家がないと出来ないのが家出なのである。
 人間ってのはきっと、常に「今の状態を維持しようとする力」と、「変わろうとする力」の二つに嘖(さいな)まれて生きているんじゃないかと思う。少なくとも私はそうだ。
「プチ家出をする少女たち」(同上)