human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

天狗下駄のこと(2)

「不穏な気配」とか「殺気」とか「邪眼」とかいうものは、「やかん」とか「おたま」とか同じようにリアルに存在する。私はそう思っている。現に、それを感じることがある。少なくとも、明治維新以前の日本人はほとんどは、危険な「気」を感知すると、立ち止まったり、五感の感度を上げたり、姿勢を変えたり、歩く進路を変えたりすることを「当然のこと」として行っていた。
何らかの入力に反応して、「このままではいけない」と判断すると、「するはずだったこととは違うことをする」というのは、平安時代の「方違え」以来、今に至るまで、生き延びるためのもっとも基本的なセンサーの使い方である。
「直観と医療について」(内田樹の研究室 2012年06月18日)

前回に書きましたが、一本歯を履いていると体の傾きに敏感になる。
「なる」というか「なってしまう」ので、それを制御する身体運用が身につく。
それはもう、履くだけで、勝手に。
下手にこけると重症になりかねない、実はけっこう危険な「スリッパ」なのですから。

これは性格の話ですが、僕は非常に流されやすい人です。
流れが目の前にあれば無思慮に飛び込むタイプでした。
飛び込んでから、うまく流される方法を模索するタイプでした。
でした、というのは、わりと長じてから「流れ」を選べるようになったからです。

「体が傾いた方向に歩く」という感覚と、自分の性格の相性は良い気がします。
それで、上に抜粋した内田樹氏の危機察知センサーの話を思い出しました。
実は一本歯はこの「センサー」の涵養に寄与するのではないか。
そう都合良く考えて、以下に連想したことを書いてみます。


僕は毎週土曜に二時間ほど歩くのが習慣になっています。
行き先は決まっていて、バスでも行けるがそうしないのは散歩したいからです。
歩く経路も大体決まっていますが、時々変わることもある。
「行く手の危機を察知して道を変える」と言えば出来過ぎた話で、無論違います。

歩く途中にだだっ広い田んぼがあったり、鶯が朗らかに鳴く林があったり。
田んぼに張られた水に空が映ったり、潤った深緑の藻があったりと見所がある。
立ち止まってじっくり見ようと思うのですが、じっくり見つつも立ち止まらない。
歩きながら見るのがいいからと思い、その理由付けの元には「流される感覚」がある。

歩きながらの方が澄んだ思考ができる、というのも同じ理由かもしれません。
風景を見ながら、あるいは何かを考えながら歩いている間の歩くという行為は、
自分の意思によるのではなくて「流されるべき(外部の)流れ」になっている。
「歩くより止まった方が疲れる」といった訳の分からない論理もここから出てくる。

それで話を戻しますが、入り組んだ路地裏には「そそられる道」が時々あります。
やけに細くて、頭上を木が茂り薄暗く、古い一軒家の並びの庭先が垣根から見える。
そういう道に「吸い込まれる」ことが、ある人にはあると思います。
その吸い込まれ方にも色々あると思いますが、一つ、最初に身体が反応するのがある。

足首をひねる(回す)か、上半身が傾くか、そういうわずかな動きが生じる。
すると「あれ?」と頭が思う頃には脇道に入っており、「へぇ!」とすぐ関心が戻る。
この「わずかな動き」に対する感度は、一本歯を履いていて本当に実感する所です。
上の「足首をひねる」も、本当に足首だけひょいとやれば、体全体が90度回転する。

混沌と書いてますが、決して下駄では散歩していません(まだそんな度胸はない)。


ここまで書いてみて、危機察知と直接は関係ないかも、と思いました。
ただ、健康体の人間が危機を察知した時に体の一部がわずかで反応するのだとすれば、
その反応に気付ける、あるいは気付かずとも従える敏感さには繋がると思えます。
もちろん、危機になんて出くわさないに越したことはありませんが。