human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「関係を見る」ことについて

 私は、かなり変わった男だ。普通の男は、自分の母親の着物を見立てたり、自分の祖母にセーターを編んでやったりなんかしない。自分の母親と祖母のいさかいを、「着物買ってやろうか?」と言って中和したりもしない。私がなにを言いたいのかというと、「要はつきあい方だ」と、それだけである。
(…)
「まず”自分”というものがあって、その”自分”がキチンと確立されてから、”つきあい方”などという下世話なことが、問題になるんだったらなる」と思っている人にとって、「要はつきあい方だ」などということは、ただの「くだらないこと」かもしれない。しかし世の中には、「まず関係があって、その関係によって自分というものが明白に規定されてくる」ということだってある。
「カワイイおばあちゃんになれる?<裏>」(橋本治『絶滅女類図鑑』)

本来は、というか発生的には誰もが「関係によって自分が規定されてくる」。
他人よりまず自分がある、という考え方は、後知恵なのですね。
そんなことを言うと、そもそも知恵は後からしかやってこないのですが。
抜粋を読んで思ったのは、「長じても関係を拠り所に生きる人」のことについて。

昨今の就活生あたりが口煩く言われているはずの「自立・自律」はこの真逆です。
これがグローバリズムの手足となるに丁度いい、という話はまた別の機会にします。
「関係を拠り所に生きる人」とはたとえば、関係があることで元気になる人です。
量や質ではなくて、「関係があること」そのことが、彼女(彼)に生気を与える。


僕などは、気の合わない人とは一緒にいたくないと普通に思います。
それどころか、話の合う人でも、長時間一緒にいるとひどく疲れるだろうと思う。
しかし彼女は、自身と関係を成立させる人間の中味を問わないのです。
その人の中味よりも、その人と彼女がつくる関係を重視する。

友人関係や恋愛関係に限らず、おそらく人間関係一般に言えることです。
もちろん彼女にとってイヤな人間もいるし、一緒にいたいと思えない人もいる。
けれどきっと、彼女がそれらの人と一緒にいる時、彼女の頭の中に「否定」はない。
関係を大事にする積み重ねとは、このような形をとるのかもしれません。

頭でっかちだと、どうしても相手に対する時、相手そのものを見ようとしてしまう。
この姿勢と、「自分と相手の関係」を見る姿勢とは、どう違うのでしょうか。
現に自分と相手が喋っている時に、この姿勢の違いはどう顕れてくるのでしょうか。
僕は頭でっかちの人間なので、以下は実感なきあやふやな想像で書きます。


例えば、彼女は関係を大事にして、日々仕事をし、生活をしています。
彼女は、話す相手の人となりではなく、会話をする二人の「関係」を見ています。
それは、相手の個性を直接には見ない、ということかもしれません。
良い関係を築ける人ならば、誰と一緒にいても楽しい。

彼女がある特定の人を好きになるという時も、二人の間の「関係」を見ています。
彼女が、他の人では代替できない、その人としか築けない「関係」を愛しく思う。
ここまで書いて、関係を愛することの意味に気付きます。
その人自身がどれだけ変わっても、彼女との「関係」は当初の強度を保ち続ける。

「家庭において、夫は妻に安らぎ、妻は家に安らぐ」と何かで読んだ覚えがある。

あるいは、関係を見ることで相手を間接的に見る効果があるかもしれません。
夫婦がお互いを、子どもを通して見ることを「子は鎹(かすがい)」という。
子どもは夫と妻の関係を可視化する、と考えることもできるでしょう。
子どもが不確定要素を存分に含むことも、「間接的」の効果を増幅することになる。


「効果」という言葉遣いもヒドいなあとは思いますが、それはさておき。
いろいろ考えるうち、「関係を見る」を実践してみたくなってきました。
具体的なイメージが全く湧きませんが、「考え過ぎるな」がまず正しいとは分かる。
まあ、こんなこと書いてる自分には向かないですね。ははは。

自分には到底理解の及ばない人種がいる、という「無知の知」からですかね、まずは。

「別に嫌いじゃない」から”つきあえる”し、そのそれぞれとの「つきあい方」ぐらい、知っているつもりだ。だったらもう関係はあって、「それ以上はいいじゃないか」と、私は思う。
 だから私は、「それ以上」を要求されると、「うるせーなー!」と平気で怒る。自分のやってることは、ひょっとしたら”親孝行”に近いようなことなのかもしれないが、自分の中には全然そんな気がないということも、私はよく知っている。

 要は「つきあい方」で、その「つきあい方」という発想がないから、「なにがその人間の”素顔”なのか」と思って、その”素顔”のようなものに対して「ドキッ」とするだけなんだろうと、私は思っているのだった。
同上