human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

個を超える可能性について(2)

 彼女は「憎しみは人を壊すけど、悲しみは人を壊さない」と断言する。
 彼女は世界の悲惨の意味を自分の内に求めることを止めた。それは個人が背負うには荷が重すぎるからだ。そして、個を越えたところにある、もうひとつの価値に自分をゆだねた時に、悲しみは愛だと知るのである。
「だから私はただ悲しむ。透明に悲しむようになった。悲しみを胸に抱いたまま、すうっと時を通過できるようになった。悲しみは私を壊さない。悲しみは憎しみを祈りに変える」
「悲しみのための装置」(田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』

(1)の続きです。

「世界の悲惨の意味を自分の内に求めること」は、異常ではない。
そうさせる情報(世界情勢のニュースなど)は日常にありふれています。
彼はそれに触れ、「なぜこんなことが起こるのだろう?」と考えてみる。
自分がどう育ち、どのような状況にいれば「こんなこと」を起こすのか。

それを真剣に考えて、今自分にできることはないかと思う。
けれど(例えば彼が中学生であれば)自分のあまりの無力さに呆然とする。
金も力もある大人が、なぜこの問題に取り組まず、安穏と日常を過ごせるのか。
彼の疑問はあまりに大きく、彼の想像力、思考力では収拾がつかない。

それから彼は「みんな真剣に考えてないしいいか」と思うかもしれない。
あるいは彼は、さらに情報を集めNPO活動に参加し始めるかもしれない。
あるいは彼は「なぜ? どうして?」と一人で考え続けるかもしれない。
深く考えない、あるいは行動する、あるいは身体を壊すまで考え続ける。

これらはいずれも、個人のなし得る選択です。
きっかけは、自分が「この問題をなんとかしたい」と思ったこと。
自分の内に起こった思いを放つために、まず自分が動くのは自然な流れです。
そして「個を超える可能性」の萌芽が、ここにあります。


ある人を見て、その人とは別に「人とは違う何か」を感じることがあります。
卑近な例で言えば、スーパーのレジ打ちの店員さん。
商品をバーコードにかざす動き、会計カゴに移す配置、釣銭を返す一連の流れ動作。
マニュアル的な無機質さではなく、淀みなく流れる動きを追求した機能美がある。

その作法は恐らく、その店員さんが一人で完成させたものではない。
その店の代々の社員やバイトが引き継ぎ、洗練させていったもののはずです。
あるいは彼らが他店のレジ打ちを観察して得たコツも含まれているかもしれない。
そのような想像をさせる店員さんがいるかもしれない。(僕は見たことないです)

分かりやすいかと思い想像で書きましたが、僕が実際に感じたことはあります。
会社の先輩に、挨拶や会話のトーンが「ドラマ的」な人がいます。
いつもはドラマ内の演技過剰な俳優を連想するのですが、ある時ビビッときました。
ある洗練さを見たのですが、「ドラマにおける所作の定型」とでも言えばよいのか。

自分の例は分かりにくいのですが、どちらも「個を超えたもの」の感じです。
これらの例は卑近に過ぎるのですが、本記事の文脈に戻りますと、
「祈る人」にも、本質としては上の例と同じ「個を超えたもの」を感じられる。
…いま「祈る人」と書いて、『悼む人』(天童荒太)の静人を思い出しました。

続きます。