human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

個を超える可能性について(1)

彼女は中学生の時に『夜と霧』に掲載されていたアウシュビッツの写真を観て三日ほど熱を出して寝込んだと言っていた。(…) 
 あまりにも悲惨な事件、大量虐殺、残虐な犯罪、戦争、災害、そのような悲惨な出来事の被害者に対して、「私」という個人がその意味を全部引き受けようとしたなら、発病するしかないだろう、と彼女は言うのだ。それは個人が引き受けるには重すぎる事実である、と。
 なぜこんなひどい事が起こってしまうのか。その意味を問うとき、自分に問うてしまったらもう人間を愛せなくなってしまう。それは自分の存在を否定し、人間を憎むことになる。
「悲しみのための装置」(田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』)

一つ前の記事を書いた後、つい昨日に本書を読み終えました。
その昨日読んだ箇所が、ちょうど自分が考えていたことと繋がっていました。
異なる場面の二つの出来事が偶然つながる体験をシンクロニシティと呼びます。
日常的な読書を通じてよくその体験と出会いますが、本が呼び寄せるのだと思います。

というわけで、一つ前の記事の続きの話になります。

積極的な虚無、という言葉は考えて出しましたが、概念は突飛なものではありません。
いつも、日常に起こる出来事に付随する感覚に言葉を与えようとします。
何かイヤな方向性が見えた時は、その先に何があるかを想像します。
「究極」というのは、単なる極端ではなく、無意識に想定されてしまう行き先です。

一般化して書けば、極端を知らずに中庸は測れない、ということです。
曲芸師が長い棒を持って綱渡りができるのは、棒のことを把握しているからです。
棒の長さが見えない、あるいは重心が分からなければ、バランスを崩して落ちます。
棒の重心を探るにも、棒の両端が見えるか見えなかで、難易度は大きく変わります。

日常的な出来事は、バランスがとれているからこそありふれています。
逆に言えば、ありふれた出来事の極端を想像することは、日常の外にある。
その極端を想像すらしないことが、日常の平穏を保つ側面は確かにあります。
しかし極端が想像できなければ、バランスがだんだん崩れていくことに気付けない。

…前置きだけで終わってしまいました。続きは次回に。