human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

形式について(1)

あるテクストの意味は、その文面にのみ存在するのではないのである。「形式は意味である」(…)のならば、素材も無関係ではない。活字、判型、ページ構成、語の間隔、使用されている紙の質なども、視覚的、触覚的に意味の効果をもたらし、そうした製本形態によって、読書に供されるもの(さらに読者によるその受容)の社会的地位があらかじめ取得されるのである。
「八 形式の力」(レジス・ドブレ『メディオロジー宣言』

「紙の質」でまず思い付くのは、欧州で一般的なペーパーバックです。
かの地は湿度の低い気候で、保存を考える時に紙質にこだわる必要がない。
日本のハードカバー本に慣れていると、容積のわりに軽いなと思ってしまう。
そしてPBを手にして初めて、新書でも文庫でも、頑丈な紙でできていると知る。

日本でも、マンガ雑誌などはそれほど強度のない紙でできています。
長期的な保管を前提としていないからなのでしょう。
その「形式」は同時に、何度も読み返そうという意思を挫くようにもはたらく。
そう考えた時、電子書籍はどういう印象を読み手に与えるでしょうか?

ハードとしては重厚であり、また高価でもある。
しかし画面に映る文字は、画面という「形式」からして刹那的な印象を免れない。
線を引いて保存できる機能があって、いつでも再現できても、それは同じことです。
定着していない文字には、ある軽さが性質として備わっている。

情報が溢れる現代においては、その軽さは違和感がない。
というより、その軽さは高度情報化社会の象徴です。
持ち重りせず、貯め込むのでなく利用する、あるいは流す。
雲に貯め込まれた情報は、やがて雨となり、大地に染み、海に還る。

そのような、循環する水のような情報と相対する個人とは何なのでしょうか?
この比喩を続ければ、人間よりは動物、さらには植物に近いように思えます。
選り好みせず、来たものを浸透させ、必要分は取り込まれ、不要分は排出される。
ここに個性が存在する必要はありません。

現代的な自然に従えば、人は他人と区別が付かなくなる、ということでしょうか。