human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

境界について

 たとえば、街角で笛を吹いていて、通行人の興味をひく人がいたとしよう。(…)多くの通行人は、数秒間だけ笛吹きが奏でるメロディを認識するに過ぎない。多少歩を緩めるくらいだろう。だが、ある人は、たまたまその笛の音に感動して、彼に歩み寄って話しかけることにした。
(…)
 どちらだろうか?
 笛吹きその人に対する興味で、あなたは一瞬足を止めるか。
 人それぞれの生活の中で、いろいろな境遇、心境の波があるだろう。そのときどきのタイミングで、足を止めるときも、見向きもしないときもある。それが普通だ。
 そうした不安定な境界領域に、本書の存在理由がある。つまりはそこに存在意義を見出せる場合と、そうでない場合があるということだ。
森博嗣ウェブ日記レプリカの使途』まえがき

境界にいる人は、不安定な状態にあります。
不安定な状態は、不安でもある。
どっちつかずは落ち着かず、居場所を決めたいと思う。
人が動くきっかけは、まず不安定な状態があってのことです。

足を踏み出せば歩ける、と言うことがあります。
しかしこれは正確ではない。
直立のまま片足を上げても、前には進めません。
体が前に傾けば、勝手に片足が踏み出るのです。

前傾姿勢を不安定とみなせば、歩く動作は「不安定状態の継続」です。
逆に安定な状態になるとは、立ち止まることを意味します。
上の話と繋げれば、好奇心を発揮することも同じ原理です。
もっと大きく見て、生きることそのものを不安定と見ることもできます。

生と死は、対なる状態とされています。
生は命の持続のことですが、では死も持続でしょうか?
二人称の死、三人称の死は、主体の記憶の中でその死が持続します。
しかし一人称の死は、認識できる一歩手前の、瞬間を指します。

死が瞬間であれば、対極にあるのは持続状態である生ではない。
死の対極は、同じく認識できる一歩手前の瞬間の、誕生だと考えられます。
すると、生とは何にあたるか。
生は、誕生と死の境界にある、不安定な状態といえます。

つまり、生きることと、好奇心を発揮することはイコールなのです。